◆〓本のシャワーにさらす肌〓◆
【No.1339】悲しみに暮れて聖母は…12月31日

ライフワークバランスをくずして大切な時間を多々失い、それによる自己否定感で鬱っぽい状態がしばしば現れたさんざんな一年だった。鬱は自己否定感だけではなく、脳内被災や社会の閉塞感から受けた部分も大きかった。
けれども、最後になって良い小説を一篇読めた喜びで帳消しとしよう。

来年は、生活の中から消え去ったような、読んで考えて書く時間を少しでも取り戻せるように務め、しばらく遠ざかっている運動を復活させ、そうじや片づけを日々心がけよう。

『スターバト・マーテル』については、書影のリンク先bk1に投稿をしたが、その後半部分を以下に貼って、今年最後のエントリーを〆とします。佳いお年をお迎えください。
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 「信仰」「慈善」「音楽」の結びつきの中で、親に捨てられた自分の存在価値を疑い苦しむ娘が、生きる道を方向づけられる。自分の進む道は確かに音楽の道に違いないと自分を発見していくモノローグは、ひとりよがりや思い込みがすべてではなく、突き破って何とかしたいという気持ちが底辺でうごめいているせいか、息苦しくない。
 読みながら寄り添うこちらが声援を送りながらも、逆に、こちらの苦しみや痛みにチェチリアが寄り添ってくれるような錯覚にも陥る。思慮深い人物造型だからなのだろう。私たちは、思慮深い人にこそ信頼を抱き、心に秘めたものを打ち明けたくなるものだ。

 最初は産道のような夜の暗闇の中でつぶやき続けるだけのチェチリアは、音楽の道連れとなり、次第に明るい方へ、陽の光や神の栄光の射す方へと飛び出していく。

どうして女の音楽家は存在しないのでしょう。どうして女性は音楽を作曲しないの? どうして魂の中だけで響かせるのに満足して、その音楽が自分たちを苦しませ、考えを蝕んでいくのを放っておくのでしょう? どうして、その音楽を外に出して、自由の身にならないのでしょう。女たちの心の中に生まれる響きが世界になだれ込んだら、どうなるのでしょう?(P103)

18世紀を舞台にしながら、このようにフェミニズム意識の高い問いかけもあるが、言葉による表現と音楽による表現をパラレルに受け止めて語る部分がいくつかあって、そこを大切に読んだ。

意味は言葉の通奏低音。言葉の旋律がその意味するものと調和することもあるし、不適当で耳障りなこともあります。ときにはひとつの文章が、その意味と照らしてなんとも巧妙な調子はずれを生みだすこともあります。(P112) 
 
 物語りに留まらないモノローグは、詩を歌う調子に転化するところもあり、箴言めいた思弁として結ばれるところもあり、作家のふところの深さを感知させる。この小説はもっと注目を集めても良さそうなものだし、他の著作も紹介されてほしい。



【No.1338】祈りのかたち…12月24日+27日

残業代がつかず、超過分の勤務は代休・調整休で振替せよという制度の下、それが本当に消化しきれるのかどうかという不安な勤務状態がしばらく続いていた。そのような仕事と家事を、ひいこら回していくには、映画や美術展、音楽会にも出かけて行けず、本も集中して読めず、絵本の読みきかせのような活動も断らざるを得ないこともあった。郊外の里山に出かけて落葉を踏みしめたり、海を眺めに行ったりとも縁がなく、気づけば年末年始の段取りも何一つしていないのである。

一週間ばかり前のメールマガジンで、加古隆クァルテットの2011年ツアーが紀尾井ホールで納めだということを知り、調べたら何とか席が取れる。それで急きょ入手して昨日出かけ、忙しかった今年のごほうびとする。

2階席後方、それでも4人の演奏家が何となく見えれば、響きは届いてくるはずなのでいいやと思って腰かけるとすぐ、会場の案内係が「お席の振替をします」と声をかけてくれた。「加古さんがもっと見える場所に……」という。
その粋な計らいがホールの心くばりなのか、コンサート・ディレクターの心くばりなのか分からないが、同じ2階席であるものの、何と、加古さんの背中を見下ろす場所に案内され、指の動きが驚くほどよく眺められた。

第一部は3曲のピアノ・ソロの間に、加古さんとメンバーそれぞれとのデュエットがはさまれた。そして第二部はクァルテット中心になる。二部という大きな構成は、印象鮮やかだったオペラシティでのデビューコンサートとは変わらない。
しかし、第一部の曲は全部入れ替えられ、第二部も、ワルツを3曲最初にまとめ、新曲を入れ、加古さん抜きの弦楽器の三重奏、それに続いて「パリは燃えているか」を組曲化、ドラマティックな「熊野古道」を最後に持ってくるという、「まさしくこれがプログラムというもの」と感じ入るような練り上げ方、工夫であった。
そして、ソロでなく仲間を得たからこそ再演できるようになったという「それぞれの海」をアンコールに用意し、アンサンブルを結成したことの意義を、演奏者自身にもファンたちにも再認識させたのであった。

ピアニストの背中や首は安定していながら、実にリラックスした様子で驚いた。音を聞いていると、ひじの先で、それほど速く激しいメロディーを繰り出しているとは考えられないぐらい、ゆったりした上半身なのだ。指先も、いったいどれだけ力があるのか、鍵盤がおもちゃのピアノのように軽く見えてしまう。
このコンサートのために、加古さんがどれほど弾き込みをしたのかは、2曲目にしてすでに分かった。「アラビアの夜」という変化の多いきらびやかな曲を弾き終えた後、何と、両こぶしをぎゅうっと握りしめ、ガッツポーズを見せたのだった。

「よしっ。イメージ通りだ。こういう演奏をしたいと思い描いた通りに成し遂げた」
一瞬握られたこぶしが、そう物語っており、コンサート前の入念なリハーサル、いくつかの地でこなしてきたツアーの成果が伝わってきた。

加古さんの第一部での衣装は渋い色合いのゴールドのシャツ。近づけば細かなししゅうがされているのであろう、あちらこちらに縫いつけられたビーズが、ゆったりした上半身の動きに合わせてきらめく。
「ビジュアル系」という表現がバンドにはあったが、クラシック界にあって、このクァルテットはビジュアル系と言えなくもない。4人の立ち位置も斬新で視覚に訴えるものであるし、二重奏の時と四重奏の時とでは雰囲気をがらりと変える2人の女性のドレスも抑制ある華やかさで楽しみの一つ。自分のパートではない時の、楽器と弓の持ち方も素敵で、本当は、そういうところをしっかり見るには正面からの席の方が良い。

しかし、「音楽は祈りの一つのかたち。」とプログラムに大きく書かれた文字を見て、加古さんのあの上半身を思い出すと、「祈り」がどういうものであるべきなのかが分かってくる気がする。
ゆったりと平静に見える背中、しかし、その実、指先の巧みな働き。
祈りもまた、静かに瞳を閉じて手を合わせる外見であっても、内面はただひたすら、ひたむきに念じるものであろう。

奇跡のように澄んでホールに満ちた四つの楽器の響き合いを、その中心となるピアニストの背を見守りながら聞くという珍しい音楽体験ができ、自分なりの謝意と祈りを天に捧げたくなった。



【No.1337】不器用には向かないツール…12月19日

わけあって今さらながらに、つぶやき始めたけれど、mixi同様、使いこなせない予感……。

リツイートをマメにできそうにないし、ハッシュタグをいきなり使い損ねたし、一日何回も見ていられないし、書きたいだけ書くという高揚感が得にくいし……。
交流が苦手な自己完結型の不器用人間には不向きな道具だ。
ただ、ギャグっぽいのはやりやすそう。

本当は、詩的な文言で埋め尽くすと存在意義があると思うので、いずれ、そういう素敵な感じにしていけたらいいよね。

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現代的に生きるって、なかなかしんどー!!!



【No.1336】一期一会…12月17日


息子の学校のPTA仲間に遠州流茶道の師範だという人がいる。サラリーマンで、他の趣味としてバイクのツーリングもあるという、なかなか多才な男性である。今夜は、その人も参加したであろう自主勉強会の忘年会にお誘いを受けていたけれど、仕事と、もろにかぶったので残念ながら遠慮した。

遠州流茶道のサイトはこちらになる。
明治以降、茶道は「婦女子の教養」という形で伝統文化としての生き残りを図ってきた部分が大きくなったということだ。礼儀作法、着物、道具やしつらえの見立て、菓子など、女性にアピールする要素と結びつき、幅広い教養が身につくものとして現在でも人気が高い芸事だというのは周知の通り。
しかし、遠州流というと、元々の大名茶道の流れを今に伝えるものである。つまり小さな庵の中で、武人同士が茶事をカモフラージュに謀議を図ったり、大名と豪商が互いの利益のために密議を交わしたりにも利用された、男と男、しかも要人と要人のフォーマルな社交を根とする。

前に、その師範の男性がチューターとなって、茶道とは元々どういうものであったか、作法がいかに理にかなったものであるかなどについて分かりやすく教えてくれた会があった。そこで「和敬清寂」「一期一会」という、茶の心についても教わった。

「一期一会」という四文字熟語を、「一生に一度の大切な出会い」というように、まるで小学生向け辞書のような意味でとらえていた私は、その言葉の持つ深みを、そこで初めて知った。
「深み」と言いつつ、卑近な例を出すと、家族が毎日、同じ席にすわって、同じようにごはんを食べたとしても、それは「一期一会」と言えるのである。
同じ顔ぶれが揃っても、例えば、食卓にのっているおかずや味が食事ごとに違ったり、家族それぞれの気分が違ったり、翌年になれば年齢が変わったり、その時の天気や陽気が異なったり、家具がすり減ったり、使っていた食器が割れて別のものになったりというように、必ず何かしら毎回違いがある。それを意識できることが一期一会だということであった。
と言うよりも、そのように私は理解した。

忘年会に出ずに、仕事として関わった学びの場に、今夜は20人ほどが集まった。皆で「地球上の人びと」いう役割を演じながら性差、年齢差、民族、言語、富などの多様性について理解を深める。
それぞれが割り振られた言語のあいさつを口にしながら、部屋の中を、自分と同じ言葉を発する仲間がいないかどうかさがして歩くワークをしたとき、ユダヤ系イタリア人作家であるナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』の一節が私の意識下でうごめいた。
帰宅して、しばらくし、「そうだ。あのワークのときに既知感のように意識していたのは、これだったのだ」と気づく。

――私たちは五人兄弟である。いまはそれぞれが離れたところに住んでいる。なかには外国にいるものもある。たがいに文通することもほとんどない。たまに会っても、相手の話をゆっくり聞くこともなく無関心でさえある。けれど、あることばをひとつ、それだけ言えばすべて事足りる。ことばひとつ、言いまわしのひとつで充分なのである。あの遠い昔のことば、何度も何度も口にした、あの子供のころのことばで、すべてがもと通りになるのだ。「われわれはぺルガモまでピクニックに来たわけではなァい」あるいは「硫酸のにおいはなんのにおい?」というだけで、私たちの昔のつながりが、これらのことばや言いまわしに付着した私たちの幼年時代や青春が、たちまちよみがえる。どこかの洞窟の漆黒の闇の中であろうと、何百万の群衆の波の中だろうと、これらのことばや言いまわしのひとつさえあれば、われわれ兄弟はたちまちにして相手がだれだか見破れるはずである。これらのことばは、われわれの共通語(ラテン)であり、私たちの過ぎ去った日々の辞書なのだ。それは古代エジプト人やアッシリア人、バビロニア人たちにとって象形文字がそうであったように、幾多の大洪水を切りぬけ、時間の浸蝕にも朽ちることなく、これらの辞句の中に行き続けてきた、いまはもうどこにも存在しないあるいのちの共同体の証しなのである。これらの言いまわしは、私たちの家族のまとまりの大切な土台であり、私たちが生きているかぎり、地球上のあちこちでたえずよみがえり、新しい生を享けて生き続けるだろう。(『ある家族の会話』須賀敦子・訳、白水社Uブックス、29-30P)

「洞窟の漆黒の闇の中」を歩いている気分で、自分に割り振られた言語のあいさつを何回か口にし、20人の参加者の中に自分の仲間がいないかどうか、さがし歩いた。今夜だけ、一つの場所に集まった「一期一会」のメンバーの間を……。

【No.584】にも、この長い引用をした。2005年3月4日の記事なのだけれど……。

それにしても、このところ超過勤務が多く自由時間がない……。
本、読みてぇ、茶でも習うヒマ、ほしい。
仕事は楽しんでいて、大きな感動がもたらされ、大きな実りを実感できるものの。
ああ、それに、先週日曜は、久しぶりの「おはなし会」が大盛況で、そこにも魔法のような一期一会が現出したのであった。記録しそこねちゃったけど。



【No.1335】満ちて欠け、そしてまた満ちる…12月10日



9日金曜日の十四夜は、ミッドナイト・ブルーのびろうどのドレスの胸元に光るマバペール(真珠の一種)のようだった。

10日は皆既月食。
残念ながら私は、月が赤銅色に染まる頃には室内で人と話していたのだけれど、0時を回る時刻の電車で帰ってきて、地元駅から、ちらちら上を見上げて歩いていると、皆既月食後の細い細い部分食となった月が、やはりびろうどのような天布の真ん中で、さえざえと輝いているのが見られた。
そして、ショーを終えかけた月を取り囲むようにして、いったいどうしたことだろう、いつになく東京の空には多くの星がまたたくのも見られた。冷たい風が雲を吹き飛ばして空が澄んでいたというだけでなく、真夜中過ぎなので、あちらこちらの明かりが消えていたせいでもあろう。

絵本の読みきかせをする者は、月の絵本というと9月の「中秋の名月」の頃に決まって取り上げる。と言うより、その時期にしか月の絵本を取り上げないようなところがあるが、今夜は表紙をいくつか貼っておきたい気分。
左上はカート・ヴォネガットのクリスマス絵本『お日さまお月さまお星さま』で、訳が朝倉久志とくればSF者は泣けてきそうな気持ちになるだろう。
右上は、アンドレ・ダーハンの新刊『メリー・クリスマスおつきさま』で、やはりクリスマスもの。まだ中身を見たことがないので、チェックしなきゃ。ダーハンさんの絵本、三日月がよく登場する気がする。
左下は、定番の『かじってみたいな、お月さま』で、誰かにかじられ続けたような今夜の天体ショーにふさわしいと思える。
右下の『おつきさまこんばんは』も定番中の定番で、ごく小さな子にも分かりやすい内容。この絵本は、保育園で読みきかせする仲間たちと、どういう読み方をするかという話をしたときに、いくつもの素敵な発見ができた大切な一冊。

月をモチーフにした絵本は実に多い。満ちて欠け、また満ちるという変化が、クリエイターたちを刺激するのであろうし、子どもをはじめとする受け手にとっても楽しい。他にも好きな本が何冊もあるけれど、今のシーズンを考えて、4冊だけ並べてみた。



【No.1334】富は神より委託されたもの…12月1日

レインコート1枚羽織って勤めに出かけ、暖房のきいた電車で体が燃えるように暑かったもので感じなかったのだが、きょうはそんなに寒い1日だったのか。白菜入りの汁物をよく飲んでいるから、体温がずいぶん上がったのかもしれない。
暑かろうと寒かろうと体感はいいけれど、もう誰がどう考えても冬だ。「読書の秋」も「芸術の秋」も楽しめないままに……。

先般、新古書店に50冊ほど持ち込んだ。中には、数十ページだけ読み、「だめ、これ。やはりソリが合わん」と、買ったことの痛烈な挫折感を味わわされる本も含まれていた。
そのぐらい処分したところで、相変わらず、「買ってちょっと目を通し、その辺に放置してほこりにもまみれてしまっている山」のいくつかは何ら変わらない。新しく美しい本が本棚に立てられていないというずぼらを何とかしたいけれど、ここ数年、片づける暇を作る気力なし。

それで今、一番手近にあった本が、こちら。数十ページ読みさしで小テーブルの上の小山を形成していた。

2009年の5刷のカバーはゴールド色で、デザインも異なる。
フセンもいくつか貼ってある。
その中の一ケ所を紹介してから寝ます。

自分の若いころの経験に照して(ママ)、私は、能力があり、それを伸ばそうとする野心をもった少年少女のためにお金でできる最もよいことは、一つのコミュニティに公共図書館を創設し、それを公共のものとして盛り立ててゆくことであると確信するようになった。私はアメリカ全国にたくさんの図書館を創設する喜びをあたえられたが、これは私の考えがまちがっていないのを証拠だててくれると思う。このような図書館の一つ一つで、ひとりの少年が、私がアンダソン大佐の手垢のついた四百巻の図書から受けた、あの恩恵の半分でも受けてくれるのであったら、私は自分の仕事がむだでなかったと考えるであろう。
(『カーネギー自伝』坂西志保・訳/中公文庫/P59)

きょうの見出しは、鉄鋼王で、第二の人生を慈善事業家として送ったカーネギーの信念である。



【No.1333】本の雑記…11月29日

◇セリエAで16位という低迷ぶりのインテルのふがいないシエナ戦を見ながら、『ブエノスアイレス食堂』の書評、と言うより、読書日記を書いてみました。書影リンクに、いずれアップされることと思います。

好きなことについて、つまり読書について久しぶりに何か書きたいなと思い、かなり「力業」で強引なくどい文章になってしまった。

◇雑誌はそろそろ表紙に「2012年」の文字が躍るものが増えてきた。
「日経サイエンス」を購入。付録がいいのです。「日本の自然」というカレンダー。
カレンダーだけで1500円というものもあるので、雑誌がついたこのカレンダー(笑)はかなりお得。
記事の見出しは、「匂いで伝える人間フェロモン」「トランシルバニアの恐竜男爵」「がんワクチン新時代」「アフガニスタンに眠るレアアース」「化学で迫る10の謎」「ニューヨークはいかに犯罪を減らしたか」「頭蓋骨は語る」というところ。
「トランシルバニア」という文字が目に入ったため、比較的抵抗なく衝動買い。

前は「科学朝日」を時々読んでいたけれど、なくなりましたもんね。もう少し柔らかめの科学誌があると良いのだけれど……。もちろん、正月号にいい内容のカレンダー付録がついた……。



【No.1332】雑記あれこれ…11月23日


◇雲の感じが「おお、ゴッサム新宿!」と思えて押さえた1枚。新宿がゴッサム・シティ(愚か者たちの町)だとは決して考えていないけれど……。

例年なら、イルミネーションで華やかに彩られているサザンテラスあたり、今年はやはり自粛気味の様子。
モザイク通りも通ってきたが、電気を使わずにクリスマスシーズンらしくする工夫か、きらきら光るメタリックな吊るし物でデコレーションされていた。「寂しいような薄暗さ」というより、シックにすると新宿も渋谷もどの町も、どこかヨーロッパっぽくなる、大人っぽくなる。
電飾でパーッといくより、ろうそくを灯し静かに心をめぐらせるのが、本来のこの時期らしさであろうし……。

◇きょうは評論家の藤本由香里さんの講演会を聞いてきた。筑摩書房での編集生活25年、編集部長まで務め、上野千鶴子、小倉千加子、田口ランディ、中島梓、松村理英子らの担当をしたということ。在職中から非常勤で大学生にジェンダー論を教えてきて、現在は明治大学の准教授。明治大学は漫画の博物館を作って話題になったけれど、その豊富な資料を活用してなのか、「子どもたちの恋愛〜マンカに描かれる『性』」というテーマであった。

1960年代半ばからゼロ年代に至る少女マンガに描かれた恋愛やセクシュアリティの変遷が話のほとんどを占めていて、その後に、結構なボリュウムで武富健治『鈴木先生』中の中学2年生男子と小学4年生女子の肉体関係をめぐる物語が紹介された。
最後に、「そこをもう少ししっかり聞きたかった」という感じで、『「若者の性」白書』のデータで読み取れる今の若者の性や恋愛に対する価値観が、いかに漫画の表現とパラレルであるかが駆け足で説明された。

「なかよし」「りぼん」「週刊マーガレット」「別冊マーガレット」、それから「少女フレンド」も週刊と月刊があったように記憶するが、後に「LaLa」も出て、小学中学年から中高と、少女漫画雑誌をほぼ制覇して読んでいた私には、「あー、あのコマ、記憶あるわ」という調子で、OHPで映し出される一条ゆかり、池田理代子、萩尾望都、田淵由美子作品などの絵を懐かしく眺めた。
でも、人気度や「性・恋愛・結婚」を扱うなら、里中満智子と弓月光、大島弓子、山岸涼子も見たかったかなと、ちょっと突っ込みしたい感じ。
私より一つだけお姉さんの藤本さんは、「りぼん」と「マーガレット」中心の読者だったのかもしれない。

最近の「小学4年生」「小学5年生」連載の性教育漫画やら、まったく知らぬ存ぜぬの『鈴木先生』を知ったのは有意であった。
でもね、強姦数やら幼児強姦数が減少してきているという傾向を、漫画の性描写が開放的になってきた、そこで子どもの知識が豊富になり、やっていいこととやっていけないことの判断力がつくようになってきた……というような内容の分析があったが、それは研究者としてはあまりにも強引すぎる説で「いかがなものか」と思えましたよ。

◇ジェンダー論、セクシュアリティ研究といったジャンルが私はどうも苦手。食わず嫌いもある。
それは一つには、リョサかマルケスが書いていた「美しき寄生虫」というのに、憧れほどではないものの肯定的な気持ちが結構あるからでもある。
寄生虫はきれいに着飾って多くの子どもを育て、優雅に暮らしているご婦人を表現している。最近になって、そういう人たちが集まる「輪」の二つほどに鬼っ子として顔を出していると、皆さん、それぞれに日常に楽しみや喜びを見つけて幸せそうだ。そうであるからこそ、意地悪な人、他者を陥れようとする人、ひがんだり愚痴っぽかったりする人がいない。優しく性格がいいものだから、そういう輪の中のお付き合いではイヤな思いをしなくて済む。
「なるほど、きれいで気立ての良い女性は、稼ぎの良い男性たちのところへ早く嫁に行っていたわけか」と今さらながらに思い知らされる。キャリアを積んでいるので上から目線だという人に出会ったり、仕事で苦労させられてきたゆえ意地悪く品の悪いことをする人に接したりすると、男女共同参画社会の中途半端な普及に疑問を感じることが多々ある。

精神的にも社会的・経済的にも自立した女性をよしとして、そればかりを評価するより、あまり先鋭的にならず、女性・男性に拘らず、「その人らしさ」「その人らしい幸福のあり方」の多様性を尊重していく文脈の方が私は共感しやすい。

そして、もう一つ、ジェンダー論、セクシュアリティ研究専攻が苦手な理由は、政治的・思想的イデオロギーを重視する見方と同じで、あんまりジェンダー、ジェンダー、フェミニズム、フェミニズムと言っていると、「触れそうになって、思わず震えた指先」やら「瞳に浮かぶ哀しみの色」やら、文学や芸術が表現しようともがくエロスの瞬間を感じ取る感覚が鈍くなってしまい、高度な美意識が表現し得た宝石のようなデリケートな部分を官能で受け止められなくなりそうなのである、うん。

◇来月のおはなし会に向け、絵本を3冊購入。
サンタクロースはいるのだという夢をふくらませられる本、人と分かち合うことの素敵を描いた本、クリスマスのごちそうにつながるよう、野菜ネタの本。
いつもながら、どれも評論家筋に高い評価を受けるような種類ではない。つまり「子どもたちに読ませたい本」ではなく「子どもたちに喜んでもらえるかな、気に入ってもらえるといいな」という弱気な私のスタンスの絵本。もっとも、その本らしさ、その本の良さを最大限に伝えられるよう配列を考えたり、読み込みをしたりに妥協はしない。それも言ってみれば、私らしさ。



【No.1331】講師陣充実講座のご案内…11月6日


(チラシの裏側内容が、写り込んでしまっています。デザインは企画準備員の小泉朋久氏)

申込締切が11月8日(火)と迫っていますが、「講師陣がロイヤルストレートフラッシュ!」という充実ぶりの連続講座が開催されますので、お知らせします(4人の先生なので4カード?)。目黒区教育委員会主催の生涯学習事業にて、費用は無料。

区民企画講座「平和のために働いた人びと 〜戦争・紛争から東日本大震災まで」

戦争や紛争はない日本。でも、震災や原発事故、格差などの問題があるのに、平和だと言えるでしょうか。赤十字やノーベル平和賞、平和憲法をよく知る講師たちといっしょに、平和の意味について考えてみましょう。

20代から70代の区民のかた9名が企画・運営を担当しています。

◆第1回[11月26日(土)]
「赤十字社って、どういう組織?」
講師:小池政行氏(日本赤十字看護大学教授(国際人道法)、外交コメンテーター)

◆第2回[12月3日(土)]
「今の日本って、平和だと言えるの?」
講師:伊藤 真氏(弁護士、伊藤塾塾長)

◆第3回[12月10日(土)]
「ノーベル平和賞はどんな人に与えられるの?」
講師:吉武信彦氏(高崎経済大学教授)

◆第4回[12月17日(土)]
「平和のために私たちができることって、何?」
講師:上條直美氏(立教大学特任准教授)

◆時間:いずれも午後6時45分〜8時45分

◆会場:目黒本町社会教育館
    (東急東横線「学芸大学駅」より徒歩15分、
     東急目黒線「武蔵小山駅」より徒歩15分)

◆対象:目黒区在住・在勤・在学のかた中心(他地域のかたも申込可能)

◆問合せ先:目黒本町社会教育館[月曜休館]
〒152-0002 目黒区目黒本町2-1-20
電話:03-3792-6321 FAX:03-3792-5247

◆申込:電話、FAX、はがきにて講座名、氏名、住所、電話番号、年代を 上記問合せ先
まで、お伝えください。
このまますぐ申込を希望する方は、こちらの電子申請入口へ。
   
◆締切:11月8日(火)必着(電子申請窓口も、この日いっぱいで閉じます)

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小池政行先生は、元フィンランド・北欧担当の外交官。過去に日本赤十字社国際部参事と
して、例えば、海外の被災地からの要請に対し、どういう医療チームを組んで派遣するか、
現地と調整しながら支援をコーディネートしてきた経験をお持ちです。
現在は、そういう国際支援の場に送り出す人材を日本赤十字看護大で養成しています。
大使館訪問、国際機関視察など、五感に訴える素晴らしく魅力的な教育を実践していらっ
しゃる様子。
長い親交のあるドナルド・キーン氏との共著『戦場のエロイカ・シンフォニー 私が体験
した日米戦』が話題になったばかりですが、『「赤十字」とは何か 人道と政治』『国際
人道法 戦争にもルールがある』など著書多数。
織田裕二のドラマ「外交官・黒田康作」の外務省監修などというお仕事もされています。


伊藤 真先生は「司法試験対策なら、ここ(伊藤塾)! 」「司法試験を受ける人で、この
人の著書を見たことがない人はいないんじゃないか」というほどのカリスマ指導者。
東大法学部在学中に司法試験に合格。しかし、合格前に一度、不合格という挫折を味
わい、そこでじっくり「目的を達成するためには、何にどう取り組むべきか」を掘り
下げた経験を、9月にNHK教育テレビで連続4回放送された「仕事学のすすめ」で語っ
ていました。
名門塾長としての教育者・経営者という顔の他、弁護士でもあるし、一人一票実現国民
会議の発起人として全国を憲法講演行脚。分刻みのスケジュールだと聞きます。
そうそうたる憲法学者は何人もいるでしょうが、「中高生から一般市民まで対象で、
今、憲法のことを一番魅力的に語れるのは、この方」という気がしています。


吉武信彦先生は、慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得満期退学で法学博士。
高崎経済大学で国際関係論、EU政治論、北欧地域研究に従事する前には、外務省
在スウェーデン日本国大使館専門調査員、ノルウェー国際問題研究所客員研究員を
歴任。
『日本人は北欧から何を学んだか 日本・北欧政治関係史入門』『国民投票と欧州統合
デンマーク・EU関係史』などの著書がありますが、近年、ノーベル平和賞に関する研究
が注目されています。
ノーベル平和賞をめぐる政治力学というユニークな視点からの論文がネット上に上げら
れていて、こういう切り口の新書にでもならないものか、もったいないなあという印象
を与えます。
平和賞を除くノーベル各賞はスウェーデンの機関で決められる、しかし、平和賞だけは
ノルウェー・ノーベル委員会が決めるわけで、この平和賞がノルウェーにとって、ソフ
ト・パワーのパワー・ポリティクスになっているという指摘です。
国際関係の中での「平和」の合意の難しさ、それゆえのノーベル平和賞の課題など、
有意な問題提起が多いです。
論文へは、こちらからアクセスできます。


上條直美先生は開発教育を専門とする、立教大学異文化コミュニケーション研究科の
准教授。
上智大学での学生時代に参加したアジアの大学生との国際交流、中学生との学習活動
などが開発教育との出会いの下地となったそうです。卒業後は東京YMCAで社会教育、
青少年事業など様々な事業に当たり、NGOでの海外支援活動を経て、明治学院大学
国際平和研究所スタッフ、立教大学ESD研究センタープログラム・コーディネーター
から現職。
豊富な社会教育経験に基づくワークョップ型の教育を得意としていますが、特に
『世界がもし100人の村だったら』を体感型ワークショップ版に製作し、それを利用
した体験学習が評判を呼んでいます。

年末へ向けての土曜夜間講座ですが、なかなか他では参加できないプログラムかと思います。



【No.1330】星空をカヌーで渡る…10月30日

ネットにあふれている「つぶやき」に美しさを見出すのは至難の業だけれど、こちらのTwilogを見ていると、満天の星空をゆったりとカヌーを漕いで渡っている気になることがある。

そんな乗り物では、物心ついてから80年ぐらい漕ぎつづけたところで、最寄りの星にすら到達できない。
しかし、そもそも目的地というものが必要なのだろうか。


古い天文学や天文学者たちのことを調べるというのは素敵な研究だ。
500年前、1000年前に比べれば、望遠鏡で見えるものがずいぶんと多くなっただろう。
それでも、天文学者の足は、相変わらず地上についているし、覗き込んだところに見える星と天文学者の間の距離が縮まったわけではない。
人間の空想力と、その空想を引き起こす宙(そら)の雄大さにも、そう大きな差がない気がする。

人は昔と変わらず卑小な存在だ、とか何とかということではなく、様々なものを呑み込んでしまう「悠久」への敬意。



【No.1329】外套にくるまった鼻歌男…10月14日


外套にくるまった鼻歌男ことグレン・グールドの「Off the Record」「On the Record」を一昨日観た。

Offの方では、やはり人々が半袖シャツで仕事をしているところにコートを着て現れたり、人々が水浴して遊んでいる湖のほとりでコートにくるまってインタビューを受けたりしているのだなと確認できて面白かった。

Onの方では、鼻歌癖というより、ピアノを弾きながらほとんど歌いまくっていることが分かって面白かった。録音スタッフに「歌のパートはないぞ」とか何とか、からかい半分で注意されるほど……。

映画解説のリーフレットを読んだら、「ゴールドベルク変奏曲」再録音の年に、ラジオで夏目漱石『草枕』を朗読したという記録が書いてあった。
ヤマハも使っていたことで日本に興味があり、そこから漱石の芸術論に惹かれていったのだろうか。

映画の中では、彼がなぜクラシック音楽好きになったのか、子ども時代の思い出が語られている。そこでカーラジオが大きな存在だったことが分かる。ラジオでドキュメンタリーを作ったり、人前での演奏よりも録音にこだわったりしたのが、そのためだったのかと納得でき、好きなラジオの中で、愛読書の漱石作品を読んだことが彼にとっていかに大切だったのかが想像できた。


グールド映画のあと「ブラック・スワン」も観てみたけど、サイコ・ホラーだと知らず、バレエを見事に踊り切れるようになるまでの物語かと思っていたもので、自分が観なくていい種類の映画だったと後味悪く帰ってきた。
いや演技は本当に素晴らしいのだけれど、こちらの体の中にまで邪気を取り込んでしまった感じ。
バッハでお清め、お清め……。








【No.1328】悩む力・悩む癖…10月7日

『悩む力』って、誰か本を書いていたよなあ…と思って調べたら、姜 尚中氏だった。
悩んで悩んで悩んで、その先に「自分のあり方」を発見し、進むべき道を見出していくというのは理想的だけれど、悩み抜くのに疲れ、自己否定状態のままで留まるのは非常に辛い。

今週も複数のことで、悩む。

どうすべきか道筋がすっきり見えても、そこを選び取っていくと自分以外の犠牲や被害が多いと思うと、なかなか決断、断行といかない場合もある。

また、「さあ、選択!」という局面で、「こちらを選べば自分にとってメリットがある、楽できる」と思えても、「こちらを選べば全体状況はよくなるはず、自分はしんどい思いをするけれど」と分かれば、やせ我慢してでも後者を取りたい。
前者を取る人の賢さは理解できても、自分は知性ある良心(「良心ある知性」なのかな)を育てていく機会をふいにしたくない。
要領は悪かったけれど、良心の信じる「まし」な選択をして良かったのだと何年も経って思い出すことがあるから……。

しかし、悩むことを「力」にできず「癖」にしたままだと、精神的に本当に傷がついて、高齢になってから、その後遺症というか、壊れ方が尋常ではなくなってしまいそうな気がして、それも不安だ。

死の直前には、悩み続けたことのすべてが霧消し、空が澄みわたったような心地よさで持ち上がれることが理想。
もうだいぶ前から、そのイメージを到達点のように考えている。
そこへ向けて生き抜くつもりで、悩みをしたがえて日々を送っているような気もしている。



【No.1327】タニタとサバト…10月2+4日

今年の夏は長かった。
早々の梅雨明けからずっとの日照り、酷暑、それに続く残暑で、煮炊き・通勤・掃除はいつ音を上げてもおかしくない状態であった。いったいどれだけの汗が流れたことだろう。

今年の冬も考える以上に長いだろう。
それは気候や節電のせいばかりではなく、「円高」という、日本経済をぎちぎちと縛り上げていく鋼鉄線のせいである。

気がつけば、カレンダーがあと3枚となり、身の回りの自然も、街も、食卓もすっかり秋の装いとなっている。
私は休日のシフトがまた変わり、平日が休みとなったため、家族が昼間はいなくて、主婦としてはゆっくり過ごせるので楽そうな月だ。

冬と言えばおそらく、出版界はいちはやく冬に入っている。
北風の強い日に頭から冷水を浴びせられたような今年の出版界――ハリー・ポッターや『1Q84』のようなメガヒットがない中で、ロングセラーとして相当に健闘しているのはタニタのレシピ本2冊。

職場の年輩女性が、「きょうの夜は何にしよう」と、このレシピ本を昼食時にたまに眺めているのを見かける。
一番年上の彼女だけがスマートフォン所持者なのだけれど、アプリにもタニタのレシピを落としているようだ。

これがどういう内容なのか、少しは気になり、先日書店で見てみたら、何となく自分が作る夕飯や弁当に似ている。
素敵なスタイリングで撮影されている点はまったくかなわない。また、さすがプロで、食材の扱いや味つけに工夫がある。だが、要は「動物蛋白の少ない栄養バランス良い粗食」というようなコンセプトがいっしょなのではないかと思えた。

ゆでた野菜にかつお節と醤油をかけたのと、めざしでもおかずにし、ごはんと味噌汁、たまごで必須アミノ酸をパーフェクトに摂るというような昔の和食を「ひな型」に思い描く。そういうものが主流だった時代に比べると相当に増えた食材や調味料をバリエーションに、気の利いた組み立てをしていけばいいというところなのか。

そのようなタニタ食の「いい子」ぶりを考えると、今夕もまた立ち寄ってきた渋谷の「フードショー」、東急東横百貨店の地下部分であるが、そこはまるでサバトの会場のようであった。食欲に全身を支配された魔女、そのしもべたちが多数跋扈していた。日曜日ということもあって、ただごとではない人の数だった。

渋谷フードショーは、とんでもなく贅沢なものを並べるのではなく、いつもの近所のスーパーに比べると、ちょっと背伸びだけれど手が届く――そういう価格帯の商品を並べ、購買力のある山手の年配女性たちの圧倒的支持を得ている。

小太りで身なりがまあまあのおばちゃんが多い。年金暮らしの人も多そうだが、ご主人は国からもらう年金の他に企業年金も結構もらっているのだろう。もちろん退職金も、とうに口座に納まっている。食べ物に、着る物に、趣味のスポーツや習いごと、旅行に、と、使える生活費と小遣いに余裕ある層の胃袋を機嫌よく満たしてあげるために存在する場所という感じだ。平日の夕方なら、共働きとおひとり様風の勤め帰り風の女性が目につく。

ターミナル駅の下にあるもので私も割によく利用するが、売っているものより、お客をじっくり観察すると、「生活に余裕のない人、飢饉に見舞われている人、被災した人などには、ここに食べ物がふんだんにある場所があることは秘密でいようね」という暗黙の約束を、地下に降りるまでの階段やエスカレーターで交わした人たちがむらがっているように思える時がある。
階上の渋谷駅周辺では、よく募金活動が行われているのだけれど、ここから出ていった人が、どれだけそういう活動に理解を示すのか、はなはだ心もとない。
ただ、あと10年、15年経つと、こういう光景って、どう変わっているのだろう。人が入れ替わるだけで同じ光景なのか。私はどうしても悲観的に捉えてしまうけれど……。



【No.1326】傷ついた人々の心に届く表現のあり方…9月28日



ジョセフ・オニール著『ネザーランド』は、「ニューヨーカー」の批評で「2001年9月11日以降の街をもっとも美しく描いた作家であり……」と絶賛されたらしい。
街そのものを直接的に描いた、というより、各人が心身に受けた「ダメージの痕跡」として街を慎重に表現する姿勢が好ましいと感じられた。

 予期せぬ悲劇に襲われ、傷ついた人々の心を慰めてくれるものは、力強いエールや勇ましい言動ばかりではなく、ささやくような声であったり、内面のたどたどしい伝え方であったりする。「復興」が掛け声だけでなく、具体的な制度や形として現れてくる何年かののち、私たちもこのような静謐でありながら力強い文芸作品を持てたら、どんなにか嬉しいことであろう。

上のようなしめくくりで、本の感想文をまとめてみた。

傷ついた人々の心に届く表現のあり方――それを心ある物書きたちは、今、一所懸命に探していることと思う(一所懸命探していることを私は願う)。
前にも書いたけれど、「とりあえず何か言論を」と慎重さを欠く調子で、有名文筆家が震災直後に発表した文章にずいぶん萎えましたもの。最近で言うなら、添え物のようにして、原発や震災のことに触れる種類の文章にも落胆させられる。枕詞(まくらことば)化させてしまっていいのかと問い正したい。


 



【No.1325】彼岸の明けに…9月27日


彼岸の明けは昨日だったが、近所で、このように赤い彼岸花と白い彼岸花が並んで咲いているのを見つけた。
なかなか珍しく、おめでたい眺め。

「彼岸」と「此岸」という言葉は昔から好きだ。

きょうは穏やかに仕事を終えて帰ってきて、「さあて、どんどん家事を片づけるぞ」と気持ちを切り替えようとしたところ、またちょっと老母の精神錯乱がぶり返した件が耳に入って、気分がふさぐ。人様にかけた迷惑のことで連絡が入り、やれやれ。
此岸の果てに立ち、彼岸を眺めるような気持ちというのは、日常に割によく訪れるものだ、昔から……。



 

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