◆〓本のシャワーにさらす肌〓◆
【No.365】雑記少々…8月30日

◇冊子小包で名古屋の古書店孤島から本が届いた。このお店、一度訪ねてみたくなるような構えだ。店名の由来が良い。「島は海の椅子である」…か。
本は特異な小説を書く作家ジョン・ファウルズの哲学論考『アリストス』小笠原豊樹・訳(パピルス)なのだが、パラパラめくると真っ当そうな内容。教科書を読むような感じかもしれない。
ファウルズは読んでいない作品が多いので、おいおい(「老い老い」かっ)楽しんで行くつもりだが、サンリオ文庫『ダニエル・マーチン』上下巻に31500円の値段をつけている古書店もある。まぁ、世田谷中央図書館に出してもらうつもりなので文句は控えるけれども…。

しかし、文学書の5000円、10000円でガタガタ言っているのって、医学書を扱う人から見ると乞食(まずぃ、NG語か)談議らしい。前に聞いたことがあるが、医学書売場では、10000〜20000円の会計客が来ても「いらっしゃいませ」のトーンが低くなりますねと言っていた。40000〜50000円の会計で普通のお客だということらしい。

というわけで、『アリストス』はこうるさい息子に見つからないよう、家じゅうにある小山のいずれかに隠す。そろそろ子ども部屋にどこか明け渡さないといけないのだが、この小山たちのことを考え始めると憂鬱になるので、なるべく見ないふりをしている。
建築士の人と相談しながら個性的な内装にしようとリフォームしたわけだが、最初の雰囲気は見る影もない。雑誌で紹介された写真もよその家のようだ。そもそも撮影のとき既に、いくつも物を撤去してスタイリングした「やらせ」写真だったような気もする。メディアで紹介される物件の8割方は原型を留めていないのではないかと疑わしい。

◇「たまにはハンバーガー食わせろ」と言うので、ささやかな仕事を中座してファーストキッチンへ連れて行く。いよいよ、夏休みは明日まで。見栄を張るわけではないが、極力カップヌードルとファーストフードは食べさせないようにしている。自分は外へ出るとしばしばファーストフード店に行くのだけれど…。
たまに「夜は何食べたい?」と聞くと、たいてい「カップヌードル」「カップうどん」と答える。精神を安定させるのは栄養バランスの取れた食事だということは明らかであるが、偏食とゲームやりまくりなので、効果はさほどない気もする。しかし、最後の一滴を盛るのをそれによって防いでいるやもしれないのだ。
帰り、「本屋さん、行こう。本屋さん、行こう」とうるさいので、言われて悪い気はしないから足を運ぶ。『犬夜叉』(小学館)36巻めが目的であった。息子の目には入らないよう、そのマンガの下に隠しながらシラー『群盗』(岩波文庫)を買う。
世界史の教科書に出てくる文学者は限られているけれども、ゲーテと対になって必ず、このシラーが登場する。「シュトルム・ウント・ドランク」だ。シュトルム・ウント・ドランクの実体を知らずしてここまで来てしまったので、名高き『群盗』ぐらいは当たっておくかな…と。

しかし、マンガのほかにガンダムとガム(毒々しい食紅のついたやつ)のガシャポンもねだられ、愉快ではない。先般、男性の知人が「中学生の娘とは、今や援助交際」と言っていたが、言い得て妙だと思う。そのうち援助額も上がってくるだろうから、もっと見入りの良い仕事を取り込むか、外に出て働き直した方が良い気もしている。



【No.364】雑記少々のつづき…8月29日

◇『うさぎのおうち』(ほるぷ出版)につづき、ジム・クレイス『死んでいる』(白水Uブックス)の紹介文でbk1からポイントを合わせて6000円分をいただいたので、せっかくだから良い本を買っておきたい、何にしようかと思案中。
北御門二郎・訳『アンナ・カレーニナ』(上下巻/東海大学出版会)が有力候補だが、『外人部隊』(国書刊行会)の出たフリードリッヒ・グラウザー、『狂気の王国』『クロック商会』『砂漠の千里眼』(作品社)も気になるところ。グラウザーは種村季弘印ですからね。行っちゃっていて自分好みではないか、と。
しかし、白水社の復刊も気になるし、ゴンブロヴィッチの新刊も今度こそ本当に出そうだし、新潮文庫版はもっているものの内容をすっかり忘れた『白鯨』(岩波文庫)が全3巻揃ったところで、新訳で再読したいもだし…。そうこうするうちにロレンス・ダレルのアレクサンドリア4部作も河出文庫で出してくれるみたいだし…。

腹が立つのは、本を買ったのがバレると「ママはそうやって買った本とか、図書館で借りた本をぜんぶ読んでいるの?」と、ときどき突っ込みを入れられることだ。極力読むようにはしているのだから放っておいてほしい。



【No.363】雑記少々…8月29日

◇雨が降って運動ができなくなったので、きょうは何かじっくり読めるかな…と思っていたが、朝ごはんを作って片付けて、昼ごはんを作って片付けて、「気圧が低いとだるいよ」とうだうだしていたらもう一日が暮れ行く。夕ごはんも作らなけりゃ。
ああ、ネットで古書さがしも結構したかもしれない、昨夜に引きつづき。昨夜は、「テベスって本当に育ちの悪そうな顔つきだ。アルゼンチン代表ユニフォームの品の良い色合いがまるで似合っていない」とテレビ画面を眺めながら検索につぐ検索。
よく考えると、オリンピックでひと通り見た競技はサッカーの決勝戦だけである。結果はたまにニュース番組で見ているけれども…。

それで、検索していたら、こんな希少な本がこんな低価格でいいのかと思えるものがあった。読んでみたい本でもあったから注文したら、「今夜発送します」という内容のメールが折り返し来て驚いた。「この本がほしいな。外に出たついでに買おう」と考え、実際に買って帰ってくるのに要する時間より、下手すると配送してもらった方が速いのではないか。取引先は名古屋の古書店だったが、最近はメール便であっても中元・歳暮期でなければ翌日、翌々日ぐらいには届いてしまう。
日本全国で荷物配送のトラックって1日何台走っているのだろう。最近は自転車の業者も見かける。鎌倉の山に住んでいる人のところへは、走ってきていたな。辿り着くのに階段ばっかりだったから…。

◇きょうは全国紙すべてに1面広告を出したことだろう。例のサントリー開発の「青いバラ」。『絶対音感』(小学館)で国民的ノンフィクション作家となった最相葉月さんの作品『青いバラ』(小学館/新潮文庫)は、半分ぐらいまで読んでやめてしまったけれど、過去の実験経緯がいろいろ書かれていた。
青色色素ほぼ100パーセントに成功しただけでなく、2007年以降の商品化が事業計画化したようである。サフィニアが日本じゅうの玄関表を席巻したみたいに、お悔やみの花にはすべてサントリー青バラが混ぜられるようになるのかなぁ。広大な市場が広がっている気がした。

Blue Roseというよりは、Pale Roseと呼ぶといいんじゃない。新聞広告の写真ではそういう色味で、好みとしてはこれ以上青くしてもらわなくても良い気がした。新聞印刷の色の再現がどれほどから知らんが。でも、紫っぽいのをアルゼンチン代表ユニフォーム的に空色っぽくしていく方が人気は出そう。青色色素100パーセントっていったって、この広告では印刷のアミ点に明らかにマゼンタが混じっているのが肉眼で見て取れる。
6月11日6月12日の記事に、『虚無への供物』から花の色素についての文章を引いたので貼っておく。中井英夫氏のエッセイが読みたかった。
<この項つづく>



【No.362】ハ・ジン新刊…8月28日

「英米文学カフェ」の新刊予定リストによれば、『待ち暮らし』(早川書房)のハ・ジンの The Crazed邦訳が9月に出るらしい。彼も亡命人作家だ。
原書の椅子の表紙は洋書売場でさんざん見かけていて、「訳されるかな、どうかな」と思っていたので楽しみ。ずばりなタイトルが気になるし、それが静かな雰囲気のなかの狂気かなと、ならば読んでみたいと思っていた。



【No.361】V・ナボコフ『マーシェンカ』(4)…8月28日

そういえば、蝶結びが洋服につけられたものではなく髪のリボンだと分かる記述は、先に抜き書きした85ページのあとに出てくる。たとえばこんな刺激的な感じで……。

――この最初の愛の日々、二人の接吻はあまりにも激しく、マーシェンカの唇ははれ、髪につけた蝶結びの下の暖かいうなじには愛のしるしのあざがしるされた。(104P)

この先も、「口」に関する記述がすべるように流れて行く。マーシェンカは言葉遊びや詩が好きで、1つの歌が2〜3日繰り返しくちずさまれることが書かれる。それにつづいて、たえず何かを口に加えている様が描写される。野イチゴ、草の茎、葉っぱなどで、キャラメルも好物のようだ。そのキャラメルの甘い匂いから転調したのか、安物の香水を使っていたことも書かれる。

――ガーニンは今になって、秋の庭園のさわやかな匂いとまじり合ったその香水の匂いを思い出してみようとしたが、周知のように記憶というものはどうしても匂いだけはよみがえらせてはくれない。過去と結びついた匂いほど、その過去を完全に生き返らせてくれるものはないのだけれども。(105P)

同宿人からマーシェンカの消息を聞いて以来、ガーニンはこのように幾度となくロシアを回想し始める。そして、もうすぐやってくるマーシェンカを思い、ある計画を思い立つのである。それがうまく行くのか挫折するのか夢中で話の展開にふけっていくわけだ。
いよいよガーニンが行動する日になるのだが、彼の送別も含め、同宿のロシア人にはそれぞれの転機が訪れたこともあって小さなパーティーが催される。パーティーもちょっとした騒ぎなら、それに先立つ下宿人のひとりの老作家が倒れたことも騒ぎになっていて、物語の終息はどうなることやら……のサスペンスでもって目一杯引き摺られている。
そこへ最後の最後での彼の決断と行動! 思い出や記憶というものがどうあるべきであり、今の生活にとってどのような位置を占めるのかを考えたとき、どうするかということなのだろうけれど、これが結局、ナボコフとロシアとの終生にわたる「悲しくも幸福な距離」ではなかったのかと思われる、納得の選択だったのではないだろうか。

この結末については、やはり目をつけている人がいて、文学の研究者の方で論文を書いている人がいるようである。できれば、そのうち手紙でも差し上げて、読ませてもらえないだろうかと考えている。
この結末、ふっと思い出したのはフォークナーの『野性の棕櫚』のウィルボーンの有名なセリフである。「悲しみと無の間にあって、おれは悲しみを選ぼう」(フォークナー全集14/井上謙治・訳/311P)だけれども、その前の部分も少し書き出しておこう。「記憶」にこだわっている箇所でもあるから……。

――なぜなら、もし記憶が肉体の外に存在するなら、それは記憶ではなくなるだろう。なぜなら、それは何を記憶しているのかわからなくなるだろうし、したがって彼女が存在しなくなったとき、その時は記憶の半分が存在しなくなったのであり、もしおれが存在しなくなったら、その時は記憶作用のすべてが存在しなくなるのだ――そうだ、と彼は思った。悲しみと無の間にあって、おれは悲しみを選ぼう。

これは、「死」より「生きる悲しみ」を選ぶという「前向きな意志のなかにある絶望」を表現したものだと私は取っているけれど、ガーニンも「ロシア時代の死」より「生きる悲しみ」を選択したということなのではないかと思っている。



【No.360】V・ナボコフ『マーシェンカ』(3)…8月28日

この小説、チョウチョと少女のひらひらの符号とともに、素晴らしい結びについて書かずにはいられないと思っていたのだが、実はきのう読み終えたイディッシュ作家アイザック・バシェヴィス・シンガーの代表作『ショーシャ』(吉夏社)の結びがこれまた鮮やかでひっくり返ってしまった。
『ショーシャ』は出版社のサイト(あとでリンク貼る予定)に拾われているが、出版の年に読書家の辻原登氏が「今年の3冊」に挙げるなど絶賛していたとしばらく前に知ったので読んでみた。このラストについても相当な入れ込みで褒めちぎっているではないか。
詳しくはまたbk1に紹介文をまとめたいと思っているが、簡単に触れると、本文の大部分はホロコースト前夜のポーランドであり、ポーランドの人口の1割、ワルシャワの人口の実に3割を占めたという消滅したユダヤ人社会の物語であり、最後の30ページがそれから13年後のニューヨークに舞台が移されている。
大戦前夜と大戦後という2つの時代設定であるというだけで、この作品自体が亡き同胞たちへのカディッシュ(ユダヤ教の追悼の祈り)だということが察せられるかと思うが、エピローグの内容はその通り、シンガー自身を投影した主人公と旧知の男性との、神や不滅の魂を語る対話になっている。観念的で小難しい会話ではなく、過去の悲劇を胸底深く抱きながらも、気の置けない友人同士で旧交を温め合う何気ない会話だ。終わりになって、旧友の新しい妻も参加してくる。
そのような和らいだ雰囲気のなかから、少し冗談めかして旧友が妻に受け答えした言葉が、ユダヤ人にとっての将来、人類にとっての将来を象徴するものとなっていて衝かれた。希望でもなく絶望でもなく、ニュートラルな「構え」が表現されていて、何とも良い後味なのである。

消滅した社会ということであれば、ベルリンの亡命ロシア人社会、それに溯るロシアの貴族社会もある時期においてのみ地球上に存在したものだ。ファンタジックな王国であれ、宇宙人のコミュニティであれ、小説はそこを支配する価値とともにひとつの社会を現出して、生きる個人を配することで成立するのが本質的かと思うが、さほど社会観、世界観がなくても身の回りのことばかりちまちま書いても成り立つ私小説というジャンルもある。……と流していくと、別の話になっちゃうな。
えー、その亡命ロシア人でいっぱいのベルリンから出ていこうとしているガーニンは、同宿の男性から偶然、かわいいマーシェンカの消息を知ることになり、さらに彼女がベルリンへ向かっていることも耳にする。
<この項つづく>



エントリー…8月27日

仕事の気分転換に自分のサイトを読んで校正を入れたりしたのだが……「露天→露店」とか記事ナンバーとかの。そうやって修正をして「投稿」ボタンをクリックすると、新着記事のところにエントリーされてしまうようだ。
News-HandlerのHP経由で来る人はほとんどいないと思うが、上の作業のあと、いきなりアクセス数が増えたりする。カマかけているわけではないけど、済みません。

それにしても毎日検索ワードを工夫しながらアクセスして遊んでいる人がいるなー。「どう見たって、その2項検索は、このサイトの記事から言葉を拾い出したものだろう」と思えるものもある。そういうのも仕事の気分転換だったりするのだろうか。何だか「うい」行為だよね。小説のエピソードみたいだし……。



【No.359】V・ナボコフ『マーシェンカ』(2)…8月26日

1924年のベルリンに亡命ロシア人たちが吹き溜まった下宿屋があり、とりたてて目的もなくそこで暮らしていたガーニンは、町をあと1週間で出て行こうとしている。腐れ縁の女性にはまだ別れを告げられないでいる。
停まってしまったエレベーターのなかから話を始め、下宿人の紹介を、前年のカレンダーの裏に無造作に書かれた部屋番号とともに行うこの巧みな小説は、ベルリン亡命生活の僅かな期間に、ガーニンという男性のロシア時代の初恋の記憶を点滅させながら進んで行く。

「デビュー作だからこそ、やはりすでにして書いてしまっていたのか」と納得したシーンがあった。その表現は、当然のように登場人物の甘美な「記憶」の一場面として滑り込まされていた。
晴れた日の夕方、決まって散歩を楽しむ憧れのマーシェンカに出会わんと、彼は自転車のペダルを漕ぎ出す。肝心の表現に先立つ部分の、この夕暮れの情景は、言葉の遊戯に上滑りすることなくゆったり着実に描き出されていて、ナボコフという作家の誠意や純真というものに触れられる気がする。

――夕日は真っ赤に燃えて、林の松のごつごつした幹を照らしている。屋敷の庭からはクローケーの球を打つ音が聞える。ブヨがたえず口や耳に飛び込んで来る。
 広い道路の上で時折ガーニンは道路工事用の石を小さなピラミッドに積み上げた横に自転車を止める。そばの電信柱は木の皮が灰色の薄片となってはがれているが、上の方でわびしく低いうなりをたてている。彼は自転車にもたれて、ロシアだけに見られるあの遠く黒いぎざぎざの森の線を畠ごしに眺める。森の上の金色に輝く西日を破るものは長くたなびくただ一すじの薄紫色の雲のみ。その雲の下から光線が燃える扇のように広がっている。空をじっと見つめ、遠くの村で牛が夢見るような鳴き声をモーとあげるのを耳にしながら、ガーニンはこの空、畠、うなる電信柱がすべて何を意味するか考えようとした。だがもう少しでそれがわかるという時に、突然頭がくらくらしはじめ、その時間の明澄な倦怠が耐えられなくなった。(84P)

そしてガーニンは再びサドルにまたがって、彼女に出くわすことを願って走り出す。ちょうど良い具合に風の抵抗を受ける自転車という乗物が私も好きだけれど、乗っていると周りの世界が広げる解放感と、期待に向かって進む適度のスピード感がいかにも少年の弾む気持ちに似つかわしい。そして、それにつづく肝心の場面。

――彼女の姿を遠くから認めると、ガーニンはたちまち心臓のあたりがぞくぞくするのを感じた。彼女は青いスカートをはき、白いブラウスの上に青いサージの上着を着て、上着のポケットに両手を突っ込んだまま勢いよく歩いている。ガーニンが軽やかなそよ風のように彼女に追い付いたとき、背中で青い服のひだが広がってさざ波をたて、黒い絹の蝶結びが二枚のひろげた羽のように見えただけだ。(84-85P)

これ、蝶の捕獲のイメージに、実によく擬態させているなと感心する。蝶結びのリボンという女性の愛らしさの象徴と、ナボコフが愛する「蝶」とを重ね合わせる表現がきっとどこかに書かれているはず、それは、ありきたりの比喩のようにも思えるけれども、おそらくナボコフにとっては重要なイメージの交わりで、ただしそう何回も繰り返して使えるわけではない。そのように思っていたのだが、ここで発見したわけだ。
女性の青い服、これはきっと「青」でならねばならず、田舎の林の間を縫ってひらひら見え隠れする。少年は、相手にとっては「軽やかなそよ風」でありたいけれども、内心はしたたかな捕虫網でありたいわけである。触れる一瞬に、蝶の体が波打つ。
黒い蝶結びははっきり書かれていないけれども、服装からすると、やはり髪に結ばれたものなのだろう。それをしっかり視野に捉えて、彼のその日の採集は完了するのだ。
それで、この見事な描写のあとに、マーシェンカという「簡単なかわいい名前」についての記述がつづく。……まあ、悩殺ものの文体ですわな。

こういう箇所を読むと、「うねるような文体」「さくさくと簡潔な文体」とかいう文章の性質だけ抜き出しても文体というものは語れ得ず、イメージをどう重ね合わせて書くかという書かれる対象とも照らし合わされて語られるべきだという気がする。
作者が言葉の感覚にいかに鋭敏であっても、文体というものはスケルトンではないから、書かれるものがひどいものであれば、美的感動、美的至福というのはもたらすことは難しい。無論、そこに独自の美意識かあれば、誰も振り向かない廃墟であっても、切り刻まれてウジの湧いた屍骸であっても、「美しく」書くことは可能だ。
<この項つづく>



【No.358】V・ナボコフ『マーシェンカ』(1)…8月26日

◆『マーシェンカ』V・ナボコフ・著/大浦暁生・訳(新潮社)
 1972年12月初版/1987年3刷・本体1400円/4-10-50602-6(絶版)
 Mary/Vladimir Nabokov/1970…英語版からの訳
この「新潮・現代世界の文学」のシリーズって、『百年の孤独』旧版や『ソフィーの選択』などを擁するシリーズで、上半分の地色は白、下半分の地色は青か黄か赤という年配の人にはおなじみの装丁だと思うけれども、デザインが早川良雄氏だとは知らなかった。早川氏って、女の顔シリーズのイラストの印象が強いものだから、「こういう仕事をしていたのか」と意外な感じがした。
僭越だけれども、自分もデザインを考えるなら、このような発想ってある……とも思う。下半分の地色と同じ色を、シリーズ名の左右に配した手描き約物にも指定する。
見えない人には何のこっちゃ分からないだろうけれど、配色も文字組みも簡素の極み、だけど、約物と本の真ん中を水平に横切る太い線が手描きで独特の味を添えていて、叢書としてのアイデンティティをインパクト強く打ち出せる優れたデザインだと思う。
早川良雄の世界という展示があることをお蔭で知った。リクルートのギャラリーG8の事業は息が長くて立派だ。ちょっとしたスペースだけれど、ちらり覗いていきたいと思わせる企画をつづけているし…。やはり、雑誌をいろいろ出しているものね。『ダ・ヴィンチ』みたいなのもそうだし…。
*=*=*=*=*
『マーシェンカ』はナボコフの出版処女作で、古書で最低4000円ほど。お値打ち品が出るのをしばらく待っていたのたが、世田谷中央図書館で中がきれいなものを開架で見つけたので、借りて読んでしまった。最初に掲げた「英語版へのはしがき」でかなり自嘲しているものだから期待せずに読み始める。

――ロシアが異常に遠く、郷愁が一生のあいだ狂おしく付きまとい、心を引き裂く郷愁にかられて奇異な振舞をいつも人前にさらす身であるから、わたしはこの処女作に感傷的な痛みを感じるほどの愛着を持っていると臆せずに告白したい。どんな小批評家でもおもしろいほど容易に数えあげることができるこの作品の欠点、無邪気と経験不足から来るぎこちないところも、(この件の審理と判決を行う唯一の判事である)わたしにとっては、(チフス回復期、納屋での音楽会、ボート漕ぎなど)いくつかの場面が存在することで償いがつく。(7-8P)

こんな具合に書いているので、若書きを謙虚に自省しているのかと思うわけだが、「すっとこどっこい」というやつで、まんまとだまされた。「どんな小批評家も」とあるように皮肉に書いているわけで、これは実は相当の自信作なのだね。
<この項つづく>



【No.357】ヘンリ・ジェイムズ『ジャングルのけもの』…8月25日

◆『ジャングルのけもの』ヘンリ・ジェイムズ・著/野中惠子・訳/牛玖健治・画(審美社)
 平成5年8月初版/本体2884円/4-7883-7025-5
 The Beast in the Jungle/Henry James/1903
『密林の野獣』『密林の獣』などの題名で過去に訳はいくつかあるけれど、『ゲイ短編小説集』などという本にも所収されている。
しかしながら「ゲイ」と断られたところで、普通に読み進めていっても分からない。ジョン・マーチャーという男性が、メイ・バートラムという女性と終生ほとんど変わりない友情を築いた話である。ふたりがしょっちゅう会ってお互いのことを理解し合い信頼し合いながら強い絆を保っていたという流れなのだが、そこに男女間の関係ができない。そのことがすなわち「ゲイだから」という、物語中では決して明らかにされない隠された事情が伺い知れる――だからゲイ小説と呼べなくもないという、短篇集の編集意図としてはなかなか凝ったものなのである。

今回読んだのは、挿画を差し挟んだ特別な装丁の審美社のシリーズで、前から気にしていた本なのだが、たまたま出かけた大きな図書館で開架で見つけたため、借りてきたのだ。
ジェイムズは後期3部作として夥しい量の小説を20世紀はじめの数年に書き上げた(口述筆記)が、この作品はそれと同時期に書かれたため、後期ジェイムズの特徴そのままに、うねりにうねった文体となっており、文体が象徴する通り、書かれている事柄も何が本意なのだかが判然としない。読者によって幾種類かの読解が可能だという「ジェイムズ節」炸裂、まさに彼にしか書けない迷宮的小説世界が提示されている。

何が何だか分からないという韜晦、それゆえ勝手な思い込みで読むことが「許される」と言うよりは「強要される」――それを果たして難解と呼ぶのが妥当なのかどうかは知らないが、そのひねくれぶりは嫌いではない。
登場人物のここでの行動を虚栄と取るならば、次にくる台詞は照れ隠しにも取れる。しかし、素直に傲慢さが顔を覗かせたと理解しておくべきか。だが、行動を虚栄と取らずに、もっと素朴な子どもが抱くような思いの発露と受け止めれば、この台詞もまた別の意味合いを帯びてくる――てな調子のパズルみたいな読書になるわけだが、それにつき合う気力がある場合には、他者の意識の錯綜ぶりを擬似体験できる面白さがある。

この『ジャングルのけもの』の場合は、いつ物語が野獣のように豹変して襲いかかってくるのか、今か今かという緊張感も巧く利用されているかと思う。つまり、ふたりの関係ががらり変化する局面を期待させられるように書かれている。それがあるからこそ、うねってもうねっても波の間に間に見え隠れするようなふたりの対話と関係を追っていくのであるが、それは最後の最後までサスペンスな状態に留め置かれ、人が悪いと言いたくなる結びに帰着する。

――失敗することになっていたすべてのことに彼は几帳面に失敗し通した。(107P)
肯定すらもこのような皮肉な形で表現されるわけで、読んでいてカードやチェスの勝負をしているような錯覚にとらわれることがジェイムズの文体なのだろうなと思う。



【No.356】『死を忘れるな』のつづき…8月25日

スパークはスコットランドのエディンバラの生まれで、英国国教会からローマ・カソリックに改宗したらしい。「死」がテーマではあっても、観念的な考察がされているわけではない。むしろ俗世の生活のひとつひとつにどうけりをつけていくかが社交のなかで語られていく小説である。
ことさらに宗教を意識して書かれたわけではないけれども、ユニークな登場人物のひとり、さまざまな人にインタビューして「老い」を研究してカードに整理している社会学者が、読んでいた本に鉛筆で印を入れるところ、その内容が興味深い。
昔の聖人や殉教者はどんな病気にかかり、どうやって衰弱していったか――それを知れば、慰めになるだろうに…というものである。

確かに視力が弱ってきたので説教を聞きに来た信者の顔がよくわからなかった聖者とか、歯茎が弱って講話のときに息がすーすーいっていた聖者とか、神経痛の右腕をさすっていた聖者などという「人間らしさ」は、書き残されようはずはない。いかに神に近づいた崇高な言動をしたかで感動を誘い、酔わせるのかが宗教の有難さなのだから…。
このように、素朴に提示された疑問が鋭い点をついていて、それがもうひとつ深いところでのユーモアにつながっていくような箇所がいくつかあった。

もうひとつ面白く感じたのは、社会的に名声を得た上流階級の人たちと、彼らに仕えていた使用人たちの老いの対照である。前者は至れり尽くせりの施設に入ったり、自宅に看護師に来てもらったりする身分で、後者は落ち度もある公的施設に入ったり、老後と言われる年代になっても働きつづけていたりする。
だが、必ずしも前者が勝ち組、後者が負け組として描かれているわけでなく、むしろ上流の場合には、財産をめぐっての煩わしさがあったり、用意に整理できない人間関係に縛られていたりする。適当な相続人がいないため、結局生前世話になった使用人にひと財産遺すというような事態も出てくる。そういえば、水村美苗氏『本格小説』も、贅沢な暮らしを楽しんだ人びとが消えたあとで、お手伝いの女性が何もかも手にするという結末が与えられていたのを思い出す。
死に当たっては、すべてが灰燼と化すという酷さ、それを大江健三郎が「グロテスク」と呼んでいたのかどうかははっきりしない。だが、酷さを覗きながらも、救いがない非情に徹するのではなく「そういうものさ」と笑いに転化していく姿勢で、軽みに浮かばせていく点が良い読後感につながった。



【No.355】ミュリエル・スパーク『死を忘れるな』…8月25日

◆『死を忘れるな』ミュリエル・スパーク・著/氷川玲ニ・訳(白水社)
 1990年7月初版/本体2233円/4-560-04270-5(絶版)
 Memento Mori/Muriel Spark/1959
この本については、以前雑誌インタビューで大江健三郎がアイリス・マードックとともに言及していたのが印象に残っていたのが、読んでみた直接のきっかけ。
大江氏は仏語にもあるドゥロール(笑劇/droll) という言葉を挙げていて、ふたりの女性作家の特徴を説明していた。マードックには男っぽい力強いユーモアがあり、スパークの方は魔女のような奇っ怪さがある…と。それで、『死を忘れるな』は死のグロテスクな意味をうまく捉えていて、その点が魔女的だという指摘であった。
訳者の氷川氏も、解説でスパークに「道化」という説明を加えている。

同じ雑誌で、前にここに書いたジョン・チーヴァーも紹介されていたが、スパークもチーヴァーも大江氏が薦める本は難解なものが多そうという先入観とは違っていて、とても読み易い。だが、見かけが読み易いから軽いのかというとそうではなく、考えさせられる内容が両立されている。
チーヴァーは中流の郊外生活者たち、ここでスパークは社会的地位のあった高齢者たちというように、ある種の人の輪を想定して書いているわけだが、そこに漂う雰囲気を描いて「こういう感じでしょ?」という共感を誘うだけでなく、彼らにおおよそ共通する価値観を描きながら、個性的な人物を描き分け、そして共通価値観からの逸脱でもってドラマを構成してみせる。

『死を忘れるな』は、作家だったが今はすっかり耄碌した女性チャーミアン、その夫で事業家だった人物ゴドフリー(彼には昔も今も妻には秘密の女性関係がある)、そして、ゴドフリーの妹で社会活動家だったディム・レティの3人が主要登場人物。だが、彼らの使用人も友人もまわりにいる人物はみな老年に入っていて、記憶力の低下や病気、遺言書の内容、昔なじみの噂、老人施設のことなどが話題の中心となっている。
量が多く小気味いい会話でもって全篇は覆われ、互いのすれ違いがユーモアとして表現されているのだが、それがお喋り小雀たちの会話のように散漫にならないのは、犯罪事件が絡んでくるからである。
表題の「死を忘れるな」が、ひとつの事件の象徴になっているが、最初はひとり暮らしのディム・レティの家へ、その脅し文句で電話がかかってくる。やがて、他にも何人かのところへ同じ脅迫電話がかかってくるので、犯人が一体誰なのか、ミステリ仕立てで引き摺られるのだ。
<この項つづく>



【No.354】「日本の幻獣」展…8月24日

妖怪研究家として名高い湯本豪一氏が学芸員を務める川崎市民ミュージアムで「日本の幻獣―未確認生物出現録―」展を見てきた。

乗物ぎらいの愚息が「バスはどうしても嫌だ」というので、この展覧会のことを教えてくれた友人一家とは別行動で現地へ向かう。武蔵小杉駅よりバス10分という径路を取らず、多摩川の東京側にある東急東横線・多摩川駅で降りて橋を渡り、延々歩いていくことにした。
そんな変わった行き方をするものだから、渋谷駅で勘違いして東横線に乗らず田園都市線に乗ってしまい、二子玉川で気づいたので東急大井町線に乗り、おかじゅう(自由が丘)乗り換えという思わぬ遠回りをしてしまった。
多摩川駅界隈は、昔50万のアンプを見せてくれる(聴かせてくれる)という人がいたので一度行ったきりで不案内。多摩川台公園などという急な坂の上の緑地に無駄に上がってしまい、そこから降りて丸子橋を渡る。とんだ遠足。
多摩川べりの道路に沿って歩いていくと、思ったより等々力緑地は遠く、不安からクレーン車の修理をしている男性に道を訊ねる。「等々力のどこに行きたいの?」と訊かれ「ミュージアム」と答えると、頼りになりそうな甲斐性のある笑顔が返ってきて、前歯にはそれを証明する金の詰め物が何やらあちこちに輝いていた。
「交差点を曲がって200M行くとバナナ屋さんがあって、その横を下りて行くと二又に分かれるけれど着く場所は一緒だから…」と抜け道らしきものの説明を受ける。結果的にその通りに辿って行くと、木陰の涼しい道を辿って目的地に着いた。「バナナ屋さん? 何だ露店で大きな房でも並べているのか」と思ったら、ガレージに大きく「川崎バナナ」と書かれていて、ぐぐって調べたら、バナナの仲卸し業者だった。そういうのは、カメラ付き携帯電話を持ち歩いていると貼れて面白いのかも…と、ちと思った。天気が穏やかなら、所要時間30分程度の散歩でなかなか楽しめるのではないかと思う。

「河童のミイラが展示されているらしいのよ」という友人の情報に釣られ、すぐに「行く! 行く!」と決めたのだが、河童、人魚、龍、鬼などのミイラという目玉展示品はじめ、幻獣の見聞をまとめた古文書、新聞記事、絵巻や漫画、果てはメンコ、田中星児が歌う「♪ネッシーとクッシー」というレコード、根付のような工芸品まで並べたユニークで気合いの入った企画で随分楽しめた。ミイラは各地の寺や教育委員会に安置されているものを借りてきているのだが、「魔」や「邪」につながる妖怪の魂を鎮めさせるという発想なのか、そのような考え方が面白いものだなと思う。

それから、私の住む町内会には谷岡プロダクションがあるのだが、幻獣展のとなりの漫画・写真スペースにおいては「谷岡ヤスジ」展も開かれていておかしかった。すぐに結びつかなかったのだが、谷岡ヤスジの漫画には幻獣がいっぱい登場するのである。ずらり並べられた原画を眺めていたら、ポケモンなんて目じゃない面白いキャラクターが続出で、それが何とも愛らしい線で描かれていて楽しかった。この催しを隣りで展開するというのもまた、素晴らしいアイデアだと感激。

川崎はリッチな市なので、センスはともかく施設が立派。ミュージアムのあちこちに展示された現代アートの彫刻(珍しい手塚治虫作品もある)を眺めても楽しいし、歴史資料を展示したスペースもあり、時間の取れる人ならば、かなり長時間飽きずに楽しめそうだ。併設のレストランは入ると何か不思議な匂いがするが、メニューに工夫もあって利用しやすかった。入場料も小学生は無料で、なかなか良いお出かけスポット。



【No.353】三島由紀夫、文学の曳航…8月23日

◆『午後の曳航』三島由紀夫(新潮文庫)
 昭和47年7月初版/本体362円/4-10-105015-5
子どものころ、この作品の映画化が話題になって、母親の寝室を覗く少年の話としてずっと記憶に留めてきたのだが、今回初読。三島由紀夫作品は好きで先日『熱帯樹』も読んだが、もったいないので小出しに読む。何かの穴を埋めたいときに、期待を裏切られない気がするので…。

夫が遺した輸入品の店を切り盛りする美貌の未亡人と船乗りの恋愛が横浜を舞台に繰り広げられる。昼メロかと取れるような、思わずプッと吹き出したくなるような設定なのだが、俗で期待を裏切られる大人の世界を観察し、それへの反発から度を越した行為に走っていく少年の視座で、ひとつの壊れゆく世界を描いている。少年は間もなく14歳。猫への残虐行為とか、大人への集団リンチとかが含まれているけれども、一連の少年事件の折には話題にならなかった気がする。今さら三島でもないかということなのだろうか。

異性としての女性をどう捉え、どう書くかという点に置いて、その女性に(少なくともここにいる1人の女性に)アッピールして美的感動や興奮をもたらすものの好例――

――「同僚には、みんなもうニ、三人の子供がいます。家族からの手紙を、何十ぺんもくりかえして読んでいます。子供の描いた家だの太陽だの花だのの絵のある手紙を。……奴らは機会を放棄した人間です。私は何もしないで、しかし、自分だけは男だ、と思って生きて来たんです。何故って、男ならいつか暁闇をついて孤独な澄んだ喇叭が鳴りひびき、光りを孕んだ分厚い雲が低く垂れ、栄光の遠い鋭い声が私の名を呼び求めているときには、寝床を蹴って、一人で出て行かなければならないからです。……そんなことを思い暮らしているうちに、いつのまにか三十を越したんです」
 しかし彼はそれを言わなかった。半ばは、女にはわからないと思ったからだ。
 又、彼は、人生でただ一度だけ会う無上の女との間には必ず死が介在して、二人ともそれと知らずに、それによって宿命的に惹きつけられる、という彼の甘美な観念、彼の脳裡にわけもなく育くまれてきた理想的な愛の形式についても語らなかった。こういうパセティックな夢は、おそらく流行歌の誇張だったろう。が、いつしかこの夢は鞏固(きょうこ)なものになり、彼の頭の中で、海の潮の暗い情念や、沖から寄せる海嘯(つなみ)の叫び声や、高まって高まって高まって砕ける波の挫折や、どこまでも追いかけてくる満潮(みちしお)の暗い力や、……そういうものすべてと絡まり合い、融け合わされた。(38-39P)



【No.352】エリザベス・ボウエン短篇集…8月22日

『あの薔薇を見てよ』という題名にぐっと引き込まれるボウエンの新刊。英国で評価されて残ってきた小説を読んでいれば、間違いはない、堅いのではないかと自省したくなる秋の始まり。



【No.351】生理的嫌悪(3)…8月22日

中年男性にとって都合のよい人形のように書かれた少女もそうだが、ほかの女性登場人物にも都合のよさ、それゆえに「蔑視」かとも思わされるような属性が付与されている。
「あやめ」「ひかがみ」にはいずれも夜の女が描かれているが、「この手の職業の女なら、男性関係はこういうものだろう」「大方、この程度のことを考えて生きているのだろう」的な3行先が見えるような展開、ワイドショー的凡庸な視点で表現されている印象を受ける。物語の流れにとっておさまりのよい女性像は、どこか類型的で、その女性のリアリティを現出させる個性的魅力に欠ける。

「この人間ならでは」の魅力や愛すべき欠点があり、それが性的アッピールとして受容される。その先に性的興奮も性的恍惚も結びついて、官能やエロスというものが描かれ得るのではないだろうか。ここに書かれているのは、排泄に近いところでの性の衝動と営みであり、官能やエロスではないのではないか。ただそれは、異性との間に甘やかなものを築けたためしがない人にとって(グラビアアイドルへの夢想でも構わんのよ)非常になまなましいものであるのかもしれないとも取れる。官能やエロスではなくして、端から排泄のような性が書かれているのかもしれない(これは「官能」という言葉を遣って本書を論じている人への批判だね)。
異性に感じる魅力、あるいは期待する甘やかなものが、うっとりとであれ、幾分はにかみながらであれ表現されていれば、その揺らぎには「美的感動」「美的至福」がにじんでくる。そうしたものへの屈折だって、書かれ方によっては同じ効果がもたらされる。

今一歩、思い込みでもって深みに踏み込んで指摘をするならば、屈折が上滑りになぞられたからこそ、「魅力」も「欠点」も読み手の情に影響するものとして書かれていないのではないかと思わないでもない。そもそも、全体から受ける印象も、「核」なき張り子のような小説だというものだった。
現実と幻想の境を曖昧にして、何なんだかどっちなんだか判然としないように書く。読者をおっと驚かすようなヤバいエピソードをいくつか散りばめる。ぬめっとした語感のあるトーンで統一、死や腐敗を象徴する事物にこだわる――こういった文学玄人に受けそうな計算がしっかりされているのを感ずる。
だが、そこに書かざるを得ない衝動、すなわちドライブ感は感じられない。技術の高い職人なれば、「幸福」という説明をつけたり、本文に「幸福」という言葉自体を遣うというのはいかがなものだろう。幸福を幸福と書かずに、幸福と感じさせる――そういう表現で結びたいという衝動こそが、張り子のなかに「核」を宿すように思えてならないのだが…。



【No.350】生理的嫌悪(2)…8月22日

「あやめ」「鰈」「ひかがみ」は3つの物語から成る連作中篇集で、それぞれに中年男性の主人公がいる。すべて一夜のうちに起こった出来事が書かれているわけだが、各人の幻想なのか酔夢なのか、あるいは此岸と彼岸の間をさ迷う霊的存在としての所作なのか、判然としない不思議な世界で彼らはうごめいており、そこにおいて3つの人生はかすかに重なり合う仕掛けとなっている。

この3人の中年男性もそうなのだが、関わり合いをもつ女性たちも含め、登場人物の誰にも魅力を感じられないのが辛かった。人外であろうと悪漢であろうと、人を惹きつけてやまない人物が登場する小説というのは多いが、この小説で造型された人たちときたら、「ああ、そういう感覚って、確かに私にも訪れる」「その物の見方は、そういうものかも」と同調できる点はあっても、それ以上に心を寄せられる要素がない。
どんより溜め込まれた澱で作られたような居ずまいは、近寄ってくれるな、いっそゴミ袋に詰めて出してくれようかといった感じのするものである。
ことに「鰈」の土岐。幻世のことのように書かれているのが余計に嫌らしいと思ったのであるが、昔、下宿先の小学生の少女に性的虐待をしたという経歴をもっている。
文学作品というもの、たったひとりの読者が対象であっても存在は許されるので何を書こうとOKではあるから、中年男性が抱きがちな少女への欲情というものが表現されること自体に抵抗はない。
ただ、ここに書かれた口淫には、中年男性のリアリティ、小説的現実は認められても、少女にとってのリアリティ、小説的現実が欠けている気がした。そこを書き込まないと丁寧ではない。小説的現実としての説得性が感じられない。
性器の感覚がまだ発達していない少女にとって、口腔の感覚というものは敏感なものだ。清潔や潔癖に対する志向が強い年齢でもあり、たとえば初潮を迎えた少女であるならば、自分の体の一部から汚いものが出てくることに対しても嫌悪感からくる戸惑いがあるのが普通ではないか。
汚いものを口に詰め込まれるということには尋常ならざる抵抗感があって、嘔吐を感じたり、死んでしまいたいと願うことさえあるだろう。その後の人生が暗くなったという後日談程度で、文学として済むものだろうか。
余計なことを書く必要もないが、官能の発達した女性にとっても、口という器官を使うということには少なくない意味がある。

単なる妄想として書かれたものであるにせよ、手鏡でエレベーターの上行く女子高生のスカートを覗いたり、非常階段に座って双眼鏡で窓を覗いていたといった大学教員たちの不祥事を聞いたときよりも気持ちが悪い。しゃれにならない「えげつなさ」が我慢ならない。
「あの頃、土岐に関して悪い噂が流れていた」という小説的現実も与えられているから、彼の経歴にはそのようなものがあると仮定して読んでいくわけだが、その男には結末で、著者説明するところの「不思議な『幸福』感」というものが用意される。この辺のバランス感覚がまた、生理的嫌悪に結びつく。
人外や悪漢の酷い行為がはびこっているのが現実世界とは頭で分かっていても、少女に口淫を強要した男、そんな男に与える幸福感かよ…とうんざりさせられた。
<この項つづく>



【No.349】生理的嫌悪(1)…8月21日

◆『あやめ 鰈 ひかがみ』松浦寿輝(講談社)
 2004年3月初版/本体1600円/4-06-212205-7
「朝、必要以上に寝過ぎてしまうとうなされるような夢を見て目覚める」と前に書いたと記憶するが、寝入り端(ばな)に嫌な夢を見て、寝ついて間もなくだというのにうなされて起きることもたまにある。昨夜がそれだった。
性的な夢ではなかったのだが、嫌な感じの中年男性に何か嫌なことを言われていたようで、気分悪く「ううっ」と目覚めてしまった。就寝前に上に挙げた本を半ばまで読んでいた。明らかにその影響である。

あちこちの書評で評判が良い。ネット上の読書日記でも同様なので期待があった。『花腐し』でえらく気の乗らない間抜けな感想を書いてしまった痛さもあったので、今度は玄人好きのする松浦作品世界にうまく自分を溶かし込むような読み方ができればいいとリベンジも賭けていたけれど…。だめだ、やはり。

人づきあいには生理的な好悪というものが大きく作用してくる。こちらが口にしたことに対するレスポンスが好ましい、親しさの距離の取り方が適切である、気遣いや意を汲み取ってくれる、遊び方や趣味のセンスのありどころなどといった点で、付き合うか付き合わないか振り分けられていくわけだ。これが男女の肉体関係に発展していくとなると、手の握り方ひとつで「いい感じ」「何かキモい」という具合に、よりあからさまで切実な問題になってくると思う。本と結ぶ関係も同じではないだろうか。

「キモかった。性に合わなかった」「ほな、さいなら」で終わらせてもいいのだけれど、本を通していろいろ考えてみることが私にとっての読書の楽しみ、そして意義でもあるので、ちょいと分析してみることにする。生理的な苦手感は一体どこから来たものなのか。
決定的なことは、読んでいて、「美的感動」とか「美的至福」がまったく感じられなかったことだ。私は小説を文学研究のためやいわゆる飯の種にするためにできるだけ幅広く、まんべんなく読もうという目的意識は持っていなくて、求めるものが非常に狭隘である。すなわち「美しい」「切ない」「愛らしい」――そのように思える言葉や設定、展開、人格をさがしているだけである。また、自分の「原型」を揺さぶってくるような手応えに飢えているということもあるかもしれない。
あとの点を尖鋭化していけば、「キモい」という揺さぶられ方も認めるには認められる気がしないでもないが、生理的嫌悪に結びつく「キモさ」はやはり遠ざけておきたいものだよね。
<この項つづく>



【No.348】手にする「鍵」のつづき…8月19日

唐突だけれど、この固有名詞のオンパレードに触れて思い出したのはトマス・ピンチョンだ。読んだことがない、読む気があまりしないのだけれど、いずれ何かのきっかけが到来することもあるだろうと、書店や図書館で手に取ってパラパラめくる機会は何回かあったピンチョン作品――固有名詞で歴史や文化を取り込んでいこうという方法には、エズラ・パウンドの影響もあるのだろうか。そんなことをふと思った。

半ばまでのところで、いいじゃないと思った箇所をいくつか書き出しておく。

  「なぜいつまでもこうしているのですか」
  「私はたとえ負けても――」とビアンカ・カペッロは言った
  「決して跪くことはしない」
  たった一日の読書で その鍵を手にすることもある
  ガシールの笛 ファーサ万歳(6P)
  
この「たった一日の読書で〜」の行が当然目に入った。『ピサ詩篇』を手にする直前の状態を思い起こして…。

  いっそ潮の流れに投げすててしまおうか
       『灯火は消えて』の詩集を
            そしてトダロの円柱のそばで
  いっそ向こう岸に渡ろうか
        それとも二十四時間待っていようか(72P)

『灯火は消えて』は、彼の処女詩集だそうである。詩集を投げすてたところで、それが読み手に刻印した言葉の数々はしばらくは消えないだろうが…。記憶する人びとがいずれ亡くなれば、そのときが真に消滅のときなのだろうが…。

  「汝は一つの死体をかかえている小さな魂にすぎない」(84P)

これは、そのままマルクス・アウレリアス『瞑想録』のエピクテートスからの引用らしい。この1行こそまさに、たった一日の読書で手にした鍵。



【No.347】手にする「鍵」…8月19日

手に触れた本をすべて拾ったり、本のトピックスで気に留めたことをすべて挙げていると大変だということに気づいて、しばらく前から「なるべく書き出そう」という姿勢を諦めてしまっている。ジム・クレイス『死んでいる』(bk1に紹介文投稿済み)を読み終えてから、5〜6冊ほど数十ページずつ読んでみて、なかには読み継ぎのものもあるのだが、しばしば訪れる「読書に倦む」という状態に突入していて、先へ先へという気持ちが失せていたのだ。
古典名作だったり、SFだったり、観念的な現代小説だったり、いろいろなものを少しかじっては、結局どれも虚無的な気分がもたげてきて「もう、いやだ」と中断する。「読んでどうなるものか」…と。
考えてみれば、やることなすことすべて似たような経験はあって、気分の波の烈しさを自分で持て余す。それと、「成就」という幸福のひとつの形をなぜかすんなり受け入られないところがあって、成就間際で、もしくは成就ののち速やかにリセットしたくなるような性質があると自覚するのだが、その性向は1ページずつを積み上げていく本を読むという営為にはどうも向いていない気もする。

エズラ・パウンド『ピサ詩篇』(みすず書房)を図書館から借りてきた。函から出されて図書館用に装備されているので、そこにレイアウトされた西脇順三郎のエズラ・パウンドの肖像画がないのは困ったものだが、白いスペースの多い詩の本の版面は、どうも倦怠を和らげるのに役立っているようである。半ばまで読み進めた。

知らない固有名詞のオンパレードだ。耳にしたことはあるけれど何だったか、どういう業績のある人だったか思い出せない名称や名前ばかり。ページの下の段に付された註に目を滑らせながら、見当をつけてようよう目で追っていくのが精一杯というところ。
そんなわけで、ほとんどが分からないのであるが楽しんでいる。政治や経済の愚策への批判精神、そして古今東西の文学や芸術への目配せ。頭に閃光のようにまたたく事物をつぶやきのように詩型に収めて詠っていくのだが、うねり進む節が心地よい。新倉俊一氏が心地よく訳しているということなのだろう。
ただ、今のところ、どうもエズラ・パウンドの精神性がはっきりしてこないのは、批判が露わにされている連につなげて、あるいは『論語』や『中庸』の教えに並べて、米国とヨーロッパの都市のレストランの名がちょくちょく出てくる点で、何かちぐはぐな気がする。
「一貫性」はことさらに追求されているわけでもないし、「一貫性」というものが欠かせざる道徳律かというと、そういうものでもなかろうとは思うのだが、おいしいものを食べて親しい人と語り合ったであろうレストランが、精神性を象徴するようなものたちと並べられているのをどう受け止めていいのか迷う。
ネフスキー通りという名は、ロシア文学を愛読する人には忘れ難いものだが、そのネフスキー通りの菓子屋がすでにして3回ばかり出てくる。特に註はついていないのだが、ここに何か極私的な記憶でもあるのではないか。そんなことが妙に気になった。
<この項つづく>



【No.346】ブコウスキーが敬愛したファンテの子息…8月18日

子どもの本の「読みきかせ」のため出かけて渋谷にも立ち寄ったのだが、大きな書店をのぞく暇がなかった。小学3年生の子どもに玄関の鍵をもたせ、学校のプールに出かけるのに鍵をかけ、戻ってきたら開けて入るように言い渡していたのだが、明かりやエアコンの消し忘れなどなかったか、水分をきちんと採って出かけたのか、熱中症でくたばったりしていないか、不慮のトラブルは起きていないかなど気にし出すと切りがない。用事が済んだらすぐに戻らないと、心配なのである。

外に出て働いていれば、彼には無論「鍵っ子」をしてもらわないといけなかったわけだが、男の子というのはどうも他の家の話を聞いても幼くてぼんやりしていて頼りない。あまり当てにできない人間を再生産してしまったかという気持ちがあるものだから、余計な猜疑心、老婆心が過保護につながっていくわけである。

だが、大急ぎで東急FoodShowで仕入れた食料品の重い荷物とともに汗をかきかき帰宅すると、言い渡したことは一応こなしていたようで安心する。早起きして作ったお弁当を食べていなかったのでムッとさせられたものの…。
オチは夕刻にあった。早起きの疲れもあったので、2階で仮眠をとったあと下に行くと、コントローラー片手にのびのびできたようでご満悦なのであるが、窓を開け放したままエアコンをつけているのである。
「やっぱりそばについていてあげないとしようがないわねぇ」とたまに思わせてくれることが、母親にとっての息子の存在意義なわけだが、ブコウスキーがただ1人敬愛した作家ジョン・ファンテの息子ダン・ファンテが父を語った本が7月に出ていたらしい。父子関係はいかなるものか。少し興味がある。
ジョン・ファンテの『塵に訊け!』は意外なところから出てきた掘り出し本という感じで、ヘミングウェイ的な男臭さとは別の男臭さを知ることができた。
ブコウスキーが紹介されたから、ジョン・ファンテが紹介され、そして息子のダン・ファンテまで紹介される。このような連鎖というのは、歓迎。



【No.345】雑記少々…8月17日

◇時々あるけれど、きょうも明け方からビジネスアワー開始ぐらいまでの間、News-Handlerのサーバーがダウンしていた様子。記事を投稿しようとしてそんな状態だったときも過去にあるが、私は結構ここのサービスが気に入っているので(活用はあまりしていないけれど)、引越の予定はない。仕事や商売ならサーバー・ダウンなんてとんでもないといきり立つところだろうが。良心的に対策も講じられており、今またサーバー補強手当ても手配されているようだ。
そういえば先週、2chにブログ板ができた。「名無しさん」は「Trackback774」だって…。

◇読了したジェイムズ・ヘリオット『毎日が奇跡』(集英社文庫)の上巻についてbk1に投稿文を書き上げた。プレビュー画面で校正をしているうちに、どこをどう触ったのか画面が別のものに切り替わってしまって1600字がおしゃか。メモパッドであらかじめ入力しておけばいいのだけれど、ものぐさなもので、この手の失敗をよく繰り返している。
復元したいとは思ったものの、天気が悪く気圧が低いと気分が沈み気味なので、できなかった。

自分が書いたものの管理をもっときちんとしていった方がいい気がしているのだが、それほど価値があるとも思えないので、バックアップのファイルが少ない。
実は、ここに上げた記事のバックアップも4分の1もしていない。News-Handlerにはバックアップ機能もできたのだが、どうもまだうまく使えないし…。ときどき思い込み強く書いたものなどピックアップして読み返したいと感じることもあるのだが、「まぁ、いいか」とすでになくしてしまった玩具の思い出と化している。

◇白水社Uブックスになったジム・クレイス『死んでいる』を読了。とても面白かった。人間の生物的側面に集中した発想の素晴らしさ、それを含む自然観からくる無神論的立場が、文体をクールでハードボイルドっぽいものにしている。
解説に、進行していく時間の流れと巻き戻されていく時間の流れの説明があったけれど、私はそれを寄せては引いていく波のように感じて読み進めていた。海辺で起こった現時制の事件と過去時制の事件も明かされていく。犯人訴追がないからミステリというわけではないのだが、ふたつの遺体という状態から、思わぬ物語が幾筋か展開していく読む楽しさがある。
こういう独自の視野による世界が広がる小説って、今の日本にはあるのだろうか。先の直木賞作家だったか、「安全な場所にいては何も書けない」みたいな発言をしているのをニュースでちらと見た。それもひとつのスタンスではあるけれども、「安全か」「やばいか」というところでなく、既存作品へのアンチテーゼやオマージュを色濃くするのではなく、「小説に何を持ち込んで表現が可能か」みたいなところでの発想で驚かせてもらえることを期待する。その「何を」っていうのは、現代風俗やタブーなとでなく、書き起こすところからの姿勢という次元でもって…。



【No.344】大江戸打ち水大作戦のつづき…8月16日

それで、このサイトの性質上、小ネタはふらり本の方へ流していくのが常なのではあるけれども、今回は意図したように「めっけもの」がなかった。「打ち水」に関する引用文でも掲げてしゃらっと粋に済ませたかったが叶わなかった。

「大江戸」と来たからには「岡本綺堂」ということで、手持ちの昭和62年初版『風俗江戸物語』(河出文庫)あたりに何か記述はなかったかとさがしたが、夏場のものとしては「江戸の化物」として「池袋の女」「葛西の源兵衛堀や溜池の河童」「日比谷の亀」「麻布の蝦蟇池」「牛込の朝顔屋敷」などの項目が並んでいる。また「両国」の章には「花火」「屋形船(涼み船)」などが見受けられる。だが、「打ち水」について特記された箇所は残念ながら、ない。
文庫本は2001年になって、明治の風俗の本の内容が加えられ『風俗江戸東京物語』として編集も新たに刊行されている。河出文庫にはほかにも綺堂の随筆があるので、そういった本には何か記述があるのかもしれない。

「打ち水」「岡本綺堂」の2項で試しにぐぐってみると、無料で読める図書館「青空文庫」の『半七捕物帖』に2件ヒットする。ただ、それは別に夏の風俗として書かれたものではなく、「打ち水で雪駄が滑った」というような何気ない文章である。
あるいは、私たちが「歯磨き」を昭和や平成の風物としてわざわざ挙げないように、「打ち水」というのはごく日常的な営みだったのかもしれない。それは別に夏場に限ったものではなく、玄関先を掃き清めたあと、ごく当たり前の掃除の手順として日々なされていたことなのだろう。そして商家であれば、水の清めのあと、さらに「盛り塩」をする。

打たれた水がしみ込んで行くのは、舗道でもなくコンクリートのたたきでもなく、赤茶けた関東ローム層だ。遠い昔、火山の噴火で強烈に火にさらされたその土を鎮めるように、江戸の人びとは水を撒いた。
ローム層はアスファルトで覆われ、熱でプレスされた。そこに溜め込まれる日の熱を鎮めようと水を打つ。地中から聞こえる哄笑は、ミミズのそれか、地霊のそれか。



【No.343】大江戸打ち水大作戦…8月16日

あさっての正午から、大江戸を中心に「打ち水大作戦2004」というイベントが企画されている。私はこの情報を食料品の宅配らでぃっしゅぼーやのチラシで知ったのだが、初日18日(水)千秋楽25日(水)の1週間、正午から1時間の間に打ち水をして風を起こし、ヒートアイランド化している都市の気温をしばらくの間でいいから皆で下げようという主旨。
ポイントは水道水をじゃーじゃー流すのではなく、お風呂の残り水、洗濯排水(泡がひどいものはダメ)、エアコンの室外機から出る水、ためた雨水(しまった。降る前に書くのだったよ)などを活用しようということらしい。
参加の意志表明はwill@uchimizu.jpに空メール送信、各日終了後、作戦本部idid@uchimizu.jpに報告、つまりどこでどのぐらい撒いたかの情報提供をしてくれると有難いとのこと。公式サイトはこちら
昨年始まったときには25日の1日だけだったそうだが、エリアによっては2℃ほど下がった実績があったとある。

たまに朝、気まぐれで如雨露で水を撒くことがある。玄関先と出たところの道路に少々だが、えらく気持ちが良い。
数年前まで、夏の出勤や帰宅というのがとても辛かった記憶がある。ママチャリだったのが途中から短距離を徒歩でに変わったが、小さな子どもを保育園に送り迎えするワーキング・マザーをやっていた。
きちんとしたところに出入りする用事や冷房病対策もあって、男性のスーツのように袖のあるスーツを着用してストッキングをはくのだが、洗濯、風呂掃除、朝食の用意片付けをしてさんざん汗をかいたあと、そういった格好をするのが何とも不愉快だった。その上、道すがら子どものご機嫌をとったり、走り出すのを止めたりでまた汗をかく。きょうのような月曜の朝であれば、園でお昼寝用の布団にシーツがけをするという作業も待っていた。
そんなわけで、打ち水をされた道をわずか数メートル通るだけで、清々しく体感温度が数度落ちる気にさせられた有難い記憶が残っているのだ。
うちの前も、ママチャリのうしろに子どもを乗せたお父さんや、孫の手を引いたお婆さんが通る。保育園への送りだということが、今朝はシーツがけだということが分かるので、それもあって水を撒いておきたいという殊勝な気持ちになるのだ。実は今朝はさぼっちゃったんだけどね。
<この項つづく>



【No.342】雑記あれこれ…8月15日

◇適量の睡眠でぱっと起きればいいのだけれど、それが過ぎるとうなされるような夢を見るのがいつものことで、今朝はエズラ・パウンド『ピサ詩篇』(みすず書房)を読むよう誰かに脅されている夢だった。数日前に図書館の新着情報でこの本を見つけたとき、エリオット『荒地』と並ぶ20世紀モダニズムの傑作ということで気に留めた。留めたは留めたけれど、何かこう自分にフィットする感じがしないので、気持ちの上で外に弾き出すようなつもりでいた。
験をかつぐ(何の験?)わけではないが、とりあえず目を通した方がいいか…ということで、お高い本でもあるから図書館に予約。
夢のなかの脅迫者は、やはりどう考えても自分の分身なんだろう。癇の虫封じということか。

◇アイン・ランド『水源』(ビジネス社)の紹介文が公開になった。
この本はビジネスマンや政治思想に興味ある人、米国とつき合いがある人が読むと想定できるので、小説愛読者や文学研究者よりも、そちらの層を意識した書き方を…。実際、日ごろは小説など読まないけれども、この内容は看過できないという人が読む種類の本ではないかという気がした。
割に新しく知り合いになった人で、今や日本を代表する建築家の事務所にいた人がいる。ヨーロッパで過ごした帰国子女の上、米国留学歴もあるので、「読んだことある?」と今度訊いてみようかと思う。若いころにボードリャールを読んだということと、ルー・リードって声がいいよねと意気投合して思わず堅く手を握りしめ合ったが、愛人関係にはないっす。

◇書いたことに事実誤認を発見。【No.333】で、『りすのパナシ』(童話館出版)が石井桃子先生の新作と書いたが、1964年に福音館から出ていた絵本の新装復刊だと奥付にあった。同じカストール叢書という絵本シリーズで『野うさぎのフルー』『くまのブウル』『かわせみのマルタン』もあるという。
石井桃子先生は、新装はもちろんのこと重版でもいまだに翻訳見直しを行うそうであるから、現役バリバリだということには変わりないけれど…。不注意をお詫びします。

◇実は、家人の実家に帰省というのが取りやめになった。なぜかというと、どうも渋滞に巻き込まれるドライブよりゆっくりスポーツ観戦をしたい様子。昼間さんざん大リーグやオリンピック中継を観ていたのに、夜中にもサッカー・イタリア戦のため起きるべく、もう床に入ったようだ。
向上心と現実の乖離に悩まされることなく、あのようになれると幸福かとも思えるが、「こういう人だったかなぁ」と以前誰かに聞かされたぼやきを自分も繰り返すことになるのか…とほ。
ともあれ帰省の取りやめのお蔭で、こちとらは本を読んでいられて有難いことは有難い。

きょうは「癒し」に走り、ドクター・ヘリオットの『毎日が奇跡』(集英社文庫)の上巻を読み終える。『ヘリオット先生奮戦記(上・下)』(ハヤカワ文庫)以来ずっとご無沙汰だったが、期待通り文句なしに面白い。読んでいて、声を立てて笑えてくる本のひとつだ。ぐっとくる場面もある。
ひとつの仕事をまっとうした人の経験談というのは読んでいて一番揺るぎなく信頼できるから、否定的な気分のときには救われるものである。
まっとうできる仕事に奉じる人生というのは羨ましい限り。こうでしか在り得ない自分を今さらやいのやいの傷つけるつもりはないけれども…。




【No.341】チャールズ・ジョンソン『中間航路』のつづき…8月14日

あしたは終戦記念日でもあるので、戦争に関連した記述で目を引く部分を長いけれども引用しておこう。
――「問題は人間そのものだということだよ、カルフーン君。男だろうと女だろうと、もの思う人間すべてが災いのもとなのだ。なぜこんなことをわしが言うと思う? ちょっと考えてみるがいい。おまえは一応教育を受けているのだろう。学校でアンキリオンや、メーストルや、ポルタリスの思想を教えてもらったか? 三人とも戦争は神聖なものだと言っていたのをおまえは覚えているだろう。戦争は、音楽や詩と同じように魂から生まれてくるのだ。人が行動するためには、何かの命ずるところに従わなければならない。自己ならざるもの――それを自然と呼ぶ者もいる。なんと名づけようと、それが意志に反抗し、そして拒否権を発動するのだ。そのときどうするか? ひょっとしてその自己ならざるものは、もう一つの自己なのかもしれん。では、どうする? 人間ひとりひとりがそれぞれに状況を判断する限り、殺戮や支配や隷属は決してなくなることがない。なぜなら、二つの判断が平等に共存することなど決してないからだ。二つの判断がともに真実だとしたら、どうして共存できないのだろうと、おまえは不思議に思うだろう。たしかに図書館に行けば、アビラのテレサとアリスティッポスが、ベーコンとバークレーが並んでいる。それでも二つの判断が平等に共存できないのは、人は誰も自分の信じていることが一番正しいと信じているからだ。人の本性をただせば、民主主義者などひとりもおらん。わしに言わせれば、人はみな一皮むけば無政府主義者だ。オウク・アガトン・ポリコイラニン・エイス・コイラノス・エストス。人はみな自分の信念を信じる。真実とは何かを最後に決めるのは、他流試合だ。庭先での戦い。寝室での戦い。それに他人の言うことに耳ばかり貸していれば、自分の心のなかまで戦争をするはめになる。どんな戦いであれ、勝った側の信念が真実となり、勝者の論理が正義となる」(110-111P)

知らない固有名詞やラテン語(?)があるけれど、言わんとすることは険しいと分かる。人間の本能として「闘争」があるということは、何かもう絶望的に烙印を押されてしまった感がある。それを究極に認めながらも、むき出しにせず「調和」「統合」を求めていくというのが知恵というものだろうとあがくしかないのではないか。
このなかで、「自分の心のなかまで戦争をするはめ」という指摘は興味深い。信念を貫くばかりでは外部で他者と戦闘状態を保つだけだが、妥協したり回りを意識すぎるばかりでも内面が戦闘状態になるということなのだろう。
けれども、同じ魂から生まれてくるものとして「音楽」や「詩」を挙げているわけで、それが休戦への鍵なのだと解釈できる。



【No.340】チャールズ・ジョンソン『中間航路』…8月14日

◆『中間航路』チャールズ・ジョンソン・著/宮本陽一郎・訳(早川書房)
 1995年12月初版/2136円/4-15-207981-9(絶版)
 Middle Passage/Charles Johnson/1990
「本の雑誌」のサイトだったかな。作家の誰かが山田詠美さんから強力プッシュされ、読んでみたら大変に素晴らしかったと絶賛していたので、2人の作家を刺激するような本なら…と気になっていた。実は、山田詠美作品は人に貸してもらってひとつ読み「何だ、こんなもんか」と落胆させられたことがある(何か各章扉に色紙が挟まれた、色にこだわった短篇連作だったような。一緒に借りた『マディソン郡の橋』とともに、床に叩きつけそうになった)。視野が狭窄なもので、以来手に取っていないのだが、この人が編集したアンソロジーの目次など見ると、読書家として優れているのではないかという感じがしている(かなり横柄で生意気な書き方だな)。
でも、この本は「なかなか」ではあったけれど、「すっげー」と驚嘆するほどではなかった、私には…。最近、血生臭い本がつづいていることがいけなかった気もする。
この奴隷船のなかはまさに阿鼻叫喚という感じで、獣どうしの闘いの荒々しさの本やら、狂人の連続殺人犯の凶行の本をしのぐ、病気で腐敗していく肉体とか、嘔吐に糞尿といった気味悪いもので満たされていて、何か急に刺繍とかレース編みを趣味にしたくなってきた。本を2冊読むなら、1冊分の時間をそのような穏やかな時間に当てるべきではないか…と。

舞台は1830年の奴隷船の上。密航者として潜り込んだ黒人解放奴隷が経験した地獄行の体験記という体裁を取っている。
訳者解説にある通り、この小説の特徴はブラック・ナショナリズムの立場で黒人の人種としての尊厳を獲得するというものではない。「黒人文化を定義するために、ヨーロッパ文化の影響から離脱するといった方向を、ジョンソンは何よりも否定する。メルヴィル、ホーソーン、そしてソール・ベロウのような白人作家のもつ哲学的小説という伝統を黒人文学のなかに取り込むことを、ジョンソンはためらわない」(238P)とあるように、解放奴隷が、新たにアフリカから狩られた奴隷たちの反乱によって生命の危機にさらされる内容を実に烈しいタッチで描いていながら、「黒人」という人種のテーマを乗り越えて普遍的な向うに達している点が、黒人文学についての定着したイメージを世界文学のなかでぐっと押し上げている印象がある。
<この項つづく>



【No.339】イアン・バンクス『共鳴』(4)…8月13日

「狂気」「ゴシック」「罪」という概念で『共鳴』という小説の内容を追ってきた。その合い間に、「土地に漂う空気」「詩情」「人間の本質への肉迫」といった、小説にあってほしいと望む要素――それを言い換えると、文学作品を文学たらしめる要素ということにもなるのだが――についてもちらり書いてきて、そこにまだ「孤独」という概念が語り切れていないことに苛立ちを感じている。

『共鳴』の連続犯人に現代のリア王を見る、つまり荒漠たる土地をひとりさ迷い歩くイメージを重ねるのは、まさに狂人に追い込まれた人物の「孤独」を感じ取ったからなのだが、その「狂気」と「孤独」の関係がうまくつかめないでじれている。

ゴシック的な空間に一人、ないしは少人数で閉じ込められれば、内面で「孤立」を強烈に意識する。そのことがやはり、狂気へのひとつの契機になり得ると考えればスムースだろうか。
事は「集団から離れる」「社会から疎外される」…だから孤独という単純なものではなく、切り離され疎外されたものとしての「孤(個)」がふたたびある対象との結合や調和を望む。その対象とは、大義や理想であったり霊的なものであったりして、言ってみれば集団や社会が作り出す「俗」とは異なる崇高なるものである。
崇高なものとの結合や調和、それが良い形で正常になされるものが「芸術」「信仰」であり、悪しき形で狂気としてなされるものが「犯罪」「暴政」であると整理できるとすっきりするが、果たしてこれらの項目は、ひとつの物差しの上の正気寄り、狂気寄りの目盛として捉えていいのかどうか。…というあたりで、アポケーしておくことにするか。

『共鳴』について思ったよりもくどくどいろいろ考えてしまったのは、つい先ほど読み終えたアイン・ランド『水源』の影がちらついていたためである。この小説も「狂気」やら「孤独」やらということが関わってくる。「狂人」というよりはニーチェ的「超人」の話であったが…。
『水源』については改めて整理しようと思うが、面白いには面白かったけれど変な(よそゆき言葉では「奇妙な」と表現する)小説だった。
Amazonの山形浩生氏のレビューを昨夜見つけて「いたいた、いた〜」と笑って、内容を読んで大爆笑。さらに訳者の藤森かよこ氏のサイトのBBS書き込み(若島正氏に対するレス部分)で、山形レビューに反応している箇所を読んで笑った。だが、女の人ってたくましいよなーと感心。「悪口でもどんとこい」というたくましさなくして、あれだけの大巻は訳せないだろう。
まあ、人の噂話は止めておき、「詩情」「人間の本質への肉迫」という面において、アイン・ランドの小説にはほとんどそういう文学的要素が感じられなかった。読んでいて、そこにちょっとしたフラストレーションがあったから、イアン・バンクスの作家性が余計印象的だったのだろう。イアン・バンクスみたいな在り方というのが、どこか『水源』のハワード・ローク的じゃないのかな。



お願い

ときどき思い出したように自分が書いたものを読み返すと、文字の誤入力が多いのに呆れる。表現が重複しているとか、文の意味がうまく通っていない部分なども、しばしば見受けられぞっとしている。
時間をかけて粘り強く校正すれば避けられることなのだろうが、掲示板への書き込みみたいに手軽に投稿できる機能というのは、どうもたるんでしまう。とりあえず勢いで書いたものをアップしてしまって、あとでゆっくり直せばいいや…と。数日掲げておいて、どうせすぐにログ化されるものだし…と。
読んでいる方々には「しょうがないねぇ、またかよ」と流していただきたく、よろしくお願いいたします。

それから、正確には「……」と書くべきところ、視覚的に「…」だけにしてしまっているのだが、先日何かの小説の解説部分を読んでいたら「…」で表記している人がいて、「直せよ、編集担当者」とも思った。おかしな和製英語と同じく、多用しているうちにルールに影響を与えちゃうのかなーと少し考えた。



【No.338】イアン・バンクス『共鳴』(3)…8月12日

小説における二者の対話というのは実に難しいものだと思う。ここぞとばかり、二者に分裂した作者が日ごろためていたものを吐き出すからではないかと分析するが、押し付けがましくなったり、発展していくはずの論が堂々めぐりし始める。
これが演劇におけるダイアローグなら、二者にそれぞれ脈絡なく勝手なことを喋らせておけば面白い。舞台に響く各々のひとりよがりな見解は、相応の効果をもたらす。
ところが小説でそれをやられてしまうと、「あら、ポストモダン」ともっともそうな評価を下してもいいのだろうけれど、どうも読みにくい。せめて語るテーマは常にひとつにして、それについて二者が異なる立場から論じてくれるスタイルでないと、物語のダイナミズムがそがれてしまう感じがする。

クライム・ノヴェルをなぜ書くのか。それは作家にとって看過できない問いかけだと思う。「メシの種だから、皆が驚くようなのを書くのですよ」と居直っている人はこの際置いておくが、「犯罪というものを通して、現代社会を透視する。社会の病理をえぐり出す」といった方向性が多くの回答かと思われる。
だが、先日、「それは違うだろう」という談話記事を新聞で見かけた。朝日新聞であることは確かなのだが、日付を控えていなくて誰のコメントだったかも忘れてしまったのだが、女性の売れているミステリ作家だったように記憶する。
オウム事件の麻原被告に対する判決が出たときだったか何かのタイミングだった。「オウム事件を知ったときは『負けた』と思った。オウムのしてきたことは、私たち作家の想像力を遥かに上回るものだった」というような流れの内容だった。
確かに、人間の限界点を描こうとする小説において、「作家の想像力は現実の犯罪などどんどん凌駕していくべきだ」という気概はもっともなものだ。本音から出た言葉だろう。だが、現実に起こってしまった極悪犯罪に対するコメントとして、それは妥当ではなくひんしゅくものだ。
これでは、作家が想像力の凄さでもって世の犯罪をリードしていかなくてはならないというニュアンスに取られてしまうではないか。まとめた記者のニュアンスの受け止め方が失敗だったのかもしれないが、ひどい認識だなと痛感した。

イアン・バンクスのこの小説には、彼がいかに「犯罪とは、罪とは何か」を重ねて考えたのかが思わず出てしまっている箇所が見受けられる。キリスト教文化圏ゆえに「原罪」という言葉も出てくるが、それが先ず否定されている。
「いや、そうしゃない。人は罪のない状態で生まれてくると、おれは思う。ただ、みんな病気に感染するように罪にも感染するんだ、いずれはな。罪に感染しないための無菌室なんてない。だれも、罪に染まることのない隔離された安全地帯で一生暮らすわけにはいかないんだ、キャメロン。世の中には修道院とか尼寺なんてものがあって、俗世間から隠遁して生きる人間もいるが、おれに言わせれば、それだって上品なあきらめにすぎない。二千年前だって、手を洗ったからって罪が洗い流せたわけじゃないし、いまもそれは同じだ。人間は罪とは切っても切れない関係にあるんだよ」(361P)
ダイアローグが下手な作家のそれのように、牧師の説教のようにはなっていないのが魅力だ。

さらに、このダイアローグは場所を変えて発展していく。
「(略)しかし、病んだ社会に病的に反応するより、もう少しましなやり方があるんじゃないか? あんたは社会と戦っているつもりだろうけど、じつは同じ穴のムジナになっているにすぎない。あんたは現代社会に毒されてしまった。かれらはあんたの魂から希望を奪い、そのかわりに飽くなき憎悪を植えつけたんだ」
「魂? おまえいま、魂って言ったね、キャメロン?」(中略)
「いや、おれの言ってるのは、あんたの心髄、あんたという人間の本質のことだよ。(以下略)」(430-431P)
人間の本質へ迫って行こうという志向もまた、文学作品を文学たらしめる要素のひとつだろう。自分のなかのそのような傾きを、クライム・ノヴェルという枠を借り、リア王的な狂人に投影させ、ゴシック的に書いた――そう私は受け止めた。
<この項つづく>



【No.337】イアン・バンクス『共鳴』(2)…8月12日

小説や詩、戯曲を評する「ゴシック」という用語は大変便利なものに私には思える。
閉鎖的な空間がある。そこに閉じ込められる者、あるいは縛りつけられる者が徐々に狂気を帯びてくる。狂気が極めて初期の場合には理想郷的状況も起こり得るが、それを過ぎると悲劇が起こる。そういった物語展開をしていくものを「ゴシック」と指すと理解するならば、リアリズム文学も伝奇ロマンも本格ミステリも、そして「猟奇」「セックス」「情報」といった訴求力ある3要素を盛り込んだ『共鳴』のようなクライム・ノヴェルも、その言葉で拾える。

(そう、邦訳は1996年だが英国での出版が1993年。それを考えれば、ラップトップのパソコンを持ち歩いて新聞記事を送稿するという主人公の行為は「情報」の先端を行くものだったろう。インターネットはまだ一般ユーザー向けにインフラが整っていなかったと記憶する。)

人が恐怖感を抱くものにはさまざまな種類があるかと思うが、この「狂気」というものほど怖いものはないと私には思える。「狂気」は「正気」の対角にあるのではない。両者は、同じ物差しの目盛の上に程度の差としてある。正気の目盛がつつつーっと横に移動してきたとき、どこまでが正気でどこからが狂気と判別がつかないグレーなゾーンがあって、やがてはっきり誰の目にも狂気と認められる症状が現れる。
趣味のことでも考えてみると分かりよい。偏執狂(パラノイア)的な趣味人は、どこまでが正気でどこからが一線を越えてしまっているのか。真夏にわんこに洋服を着せて散歩させる人を、自宅をすべて樹木で覆い尽くす人を、口説き文句すら著名な文筆家の表現の引用でしか済ませられない人を、どこまで正気の人として認知すべきか。
何も猟奇やらSM嗜好といった特異な側面だけでなく、誰にでもある「怒り」「悔しさ」「憎しみ」といった感情の起伏においても、「狂気」はごく自然なものとして私たちの回りに見受けられる。

『共鳴』の主人公キャメロンは麻薬を愛飲する。昂揚感を求めるだけなので一定ラインでの節制を自分に持たせて正気を保てる量で楽しむわけだが、では、彼の性生活はどうか。これもまた、パートナーとの間に「快楽」「愉楽」が確認し合える範囲での正気からの逸脱になっているが、行き過ぎ気味の逸脱だと思える場面がある。それが、キャメロンの日常生活に「共鳴」するように描かれている連続猟奇殺人の場面と激しく同調するようトリッキーに描かれている部分が面白い。
キャメロンの正気側に踏み留まったところでのちょっとした「狂気」への逸脱と、連続殺人犯の狂気側に踏み留まったところでのちょっとした「正気」への揺り戻しの対照が『共鳴』という巧いタイトルの真価である。
そして終盤で繰り広げられる「限りなく狂人に近い健常者」と「限りなく正気に近い狂人」の間に戦わされるダイアローグこそ、イアン・バンクスの本領発揮という感じだ。
<この項つづく>



【No.336】イアン・バンクス『共鳴』(1)…8月11日

◆『共鳴』イアン・バンクス・著/広瀬順弘・訳(ハヤカワ文庫)
 1996年9月初版/本体757円/4-15-100104-2
 Complicity/Iain Banks/1993
ブルース・チャトウィン『パタゴニア』(めるくまーる)をカバンに入れて持って行ったのだが、宿泊先に本棚があり、いろいろなジャンルの本が乱雑に並べられていた。珍しいところでカミーロ・ホセ・セーラ『蜂の巣』という白水社<新しい世界の文学シリーズ>の1冊があり、「ほしいなー。持って行っちゃおうかなぁ」などと…。
「イアン・バンクスなんかもある」と目についたのは、『蜂の巣』からの『蜂工場』(集英社文庫)つながりだと思う。『蜂工場』1冊で、この作家がとんでもない人だと分かっていたし、さまざまなジャンルの小説を書くことを知っていたので、ちょいと読むつもりで手に取ったのだが、手放せなくなってしまった。
チェック・アウト時にまだ3分の1の読み残しがあったので、郵送で返却することにして結局借りてきた(よく考えると、一緒に『蜂の巣』も借りればよかったのだ)。

「サイコ2001」という、シャレだとしか考えられない邦題をつけられた映画にもなっているらしい。確かにこの本を、多くの人をだまくらかして売りつけたいと考えるならば、「想像を絶するグロいやり口の連続殺人、どうしようもなくエロい人妻とのSMプレイ」と読みどころを強調すればいいように思える。
そういった諸場面はかなりエキサイティングであり、本音を書いてしまうと充分に楽しんだ。などとけろり表現するとまずいか。殺害シーンは、感じ易い人でなくとも相当に気味の悪い残虐な内容であり、吐き気を催したり、あとでうなされることもあるかと思う(私も相当に感じ易いとは思っているのだが、自分ではこれでも)。
また、解説の風間賢二氏が引っ張ってきた海外評のように「トマス・ハリス『羊たちの沈黙』とブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』を合体したような作品」という説明も巧いかもしれない。このベストセラー2作品には映像でしか触れていないけれども、要素や設定、展開に重なり合うものは確かにいくつかあるし、加速していく狂気という点において、傾向の似通ったクライム・ノヴェルということも可能だろう。

だが『共鳴』は、読み通してみると決してエロ&グロなものではない。エログロを覆い尽くすものが書かれているからなのだろう。言ってみれば、英国ハイランド地方の限りなく荒漠とした土地がもたらすやるせない寂寥感である。『蜂工場』という小説もそれに包まれていた。ある土地に漂う空気には、人を痴れさせるものがあると感じさせられた。
『蜂工場』に添えられた解説には「詩的美意識」という言葉が遣われているが、イアン・バンクスの書く文章には、文学作品を文学たらしめる要素のひとつ「詩情」がトーンとしてあり、全篇を貫いている。その情感でしか書けないということが、たとえばエンターテインメントとしての価値を損ねることもあり得る。
本作『共鳴』において徹底した娯楽を追求するなら、犯人解明をもっと最後の方まで引き摺ることも可能だと思える。その手のプロットに作り直す実力は当然備わっている作家だと思う。しかし、土壇場で犯人を明かすという際どい技に走って面白さを増強することはしないのだろう。それは、犯人が分かりかけてきてからのことをじっくり書きたいからだ。
『羊たちの沈黙』『アメリカン・サイコ』は読んでいて思い浮かばなかった。けれども、この雰囲気は何かに似ている、一体何だろうと考えていて、読み終わって1日経った今日、ふっと思いついた。イアン・バンクスが書いたのは現代の『リア王』ではないか、と。
<この項つづく>



【No.335】レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』改訳…8月8日

◇出版業務を断念したペヨトル工房で出ていた『ロクス・ソルス』改訳版が平凡社ライブラリーに所収されたそう。
岡谷公二先生も1929年のお生まれですよ。『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(河出文庫)もそうだけれど、アカデミズムのジャンルから外れがちな奇才たちを紹介された功績というのは実に大きいと思う。

◇シュヴァルのあとがきにあるが、シュヴァル、ルソー、ルーセルを結びつけて論考している点が興味深い。「批判精神の欠如と無知から、はからずも生の欲求の無垢を守り返すことができた」と指摘し、それぞれ建築史、美術史、文学史の系譜をもたない、それは系譜から出発しなかったからだということに重きを置いている。『ロクス・ソルス』の主人公は科学者だそうだが、やはりそのような人間として書かれているのか。
これらの仲間が『水源』の主人公ロークに重なる。最近の日本で言うと、建築家の安藤忠雄氏や画家の司修氏も、そうね。



【No.334】小旅行の予定…8月8日

◇明日と明後日は、あまり人がいないはずの海水浴場へ。荷物がいろいろあるので「車にしない?」と持ちかけたが、「おれ、それなら行かない」と稚児さまのご機嫌そこねかけ「わかった、わかった。電車にしよう」とひと悶着。
暑い上、あんまりエンジンをかけていないので、またバッテリーが上がったりしないだろうね。樹脂の匂いが嫌だということは、総天然材料の内装車を特注しろということか。マセラッティか何かの…。

◇本文1031Pある『水源』を320P読み進め、移動先にもって行きたいのだが、車じゃないから断念。『パタゴニア』がいいだろうな。海を眺めながら、「あー、ひとりで勝手に旅行したい」と別の場所に飛ぶということで…。
家族旅行なら、あまり予定を立てずに、テントや炊事道具を積んであちこちへ移動するようなスタイルを望んでいたのだけれど、家人はその手の行動力に欠け、大きな温泉旅館で大リーグ見ながらビール飲みたい「おぢさん」と成り果てたし、子どもも乗り物酔いに加えて、心地よい室内でゲームしていたい派だし、世の中そうそううまくいかないものだ。
子どもに大うちわをあおがせながら、私はときどき星を眺めてコットの上で本を読んでいる。すると、料理自慢の夫が傍らのかまどで詰め物をした鶏のローストでも作っていて、良い匂いが漂ってくるというのが理想だ。

◇『水源』は石切場のシーンがあったせいもあるけれど、ケン・フォレット『大聖堂』を思い起こした。同じ建築の物語であるし、それに関係する人びとの群像をドラマチックに描いている娯楽性豊かな小説であるし(「建築」と「人間形成」をうまく響き合わせている点でも)、進み方が一方向で分かり易いし…。むろん、ケン・フォレットが『水源』を意識したのだろう。

政治思想家の小説ということで多少なりとも身構えていたが、「経済がすべての土台だ」みたいな表現をしているところが出てきたぐらいで、「ふぅむ、下部構造と上部構造。資本主義がまだこれからどんどん力を発揮していこうという時期に書かれた小説だぁ」という程度が今のところの印象。何か途方もない展開を期待してはいるけれど、どうだろう。そこまで到達しているだろうか。

◇bk1に愛らしい絵本と『ドクトル・マブゼ』について投稿。2本とも、久しぶりにすうっと気負いなく書けた気がする。自分にとって衝撃が大きすぎる本だと、そこのところを何とかうまく説明したいという欲が出て、高いバーに対し、フォームが乱れるのだと思った。
きょうの2冊も良い本ではあるけれど、「楽しく紹介しよう」という余裕があるのね、きっと。



【No.333】雑記あれこれ…8月7日

◇夏休み前の納会だった昨日、家人が持ち帰ったアイン・ランド『水源』――居酒屋まで持ち歩いてくれてご苦労、ご苦労と思い、きょう少し読み進める。腹が重い。
ソファで半身起こして読むというのが、どうも不自由な重量だ。内容は分かり易く面白いのだが、ときどきこの腹の上にのしかかる重さが気になる。かといって、机の上にのせて色鉛筆片手に読むような種類じゃないし…。この人のお仲間フリードマンって、ベストセラー『選択の自由』のミルトン・フリードマンか? 何やら懐かしい。

◇映画の父のひとりフリッツ・ラングが映像化した『ドクトル・マブゼ』ノルベルト・ジャック(ハヤカワ・ポケミス)面白かった〜。たしかに江戸川乱歩チック。つまり、一歩まちがうと実に安っぽいのだが、そのギリギリ線で面白おかしくやっているという意味。

◇頼まれた文章をふたつ書かなくてはいけなくて、絵本の資料さがしに忙しくしていたが、立てつづけに良い作品に出会って幸せ。昨年出た『りすのパナシ』(童話館出版)って、1907年生まれの石井桃子大先生の新作でっせ。すごいねー。石井先生の青春回顧録『幻の朱い実』って素晴らしかったけれど、岩波現代文庫にでも入らないのかしらん。
それから、この6月に出た『ジェフィのパーティー』は、先日、しつこく原文と訳を写した『すばらしいとき』の渡辺茂男先生の新作なり。1928年のお生まれ。名作絵本『どろんこハリー』のフルスタッフによるもので、内容も素晴らしい。新風舎って、最近良い絵本を出している。
絵本のオールウェイズ・マイベスト3は、小説のように悩まない。『どろんこハリー』『すばらしいとき』『かいじゅうたちのいるところ』だということで納得している。

◇『ダンとアン』原書Where the Red Fern Growsがきのう出がけに届いたので、息子とプールで泳いだあと、休みながらつらつら眺めた。確かに平易な英語で書かれている。
ガートルード・スタインがヘミングウェイに平易に書くよう文章指南をしたそうだけれど、平易にして美しい文体というのは、この時代にあっても追求されていい方向に思える。
もうひとつ確認したかったのは、邦訳になかった献辞。やはり、ちゃんとあった。
――To my wonderful wife without whose help this book would not have been written

◇きょうは家人と息子を映画に追い出せたので、単身下北沢をぐるぐる。買い物がいろいろあったけれど、途中ヴィレッジ・ヴァンガードにも三省堂にも寄る。ヴィレッジはひんしゅくもののPOPをつけて中島らも作品をどーんと並べていた。
三省堂では、ブルース・チャトウィン『パタゴニア』の4刷を発見。品切れになっていたのをこの5月に刷っていたのだ。迷わず買う。



【No.332】北の丸公園界隈のつづき…8月7日

さて、昭和館である。
地下鉄の駅から上がったとき、九段会館のとなり、ちょうど九段下交差点の角地のところに、窓のないインヴェーダー・ゲームのインヴェーダーみたいなおかしな建物が見えた。ここには何があったんだっけかと思い出せない。
何かの宗教団体か思想団体の施設だろう、何の施設か分からないけれども…、こんな真ん中にいやーねと行きは通り過ぎたが、工芸館から九段会館に寄った帰り、次の市谷駅まで歩きたいと息子が言うので向かおうとすると、「無料」という字が目に飛び込んできた。早く家に帰っても、子どもがするのはゲームだけと分かっているので、くわばらくわばら、できるだけ外に引き止めておきたい。
心地よさそうなソファも見えたので入っていくと、「戦中戦後の庶民の暮らしを展示したフロアがあります。そこは入場料がいるのですけれど、夏休みなのでお子さまは無料で…」と親切にお姉さんが説明してくれる。
真夏の戦争回想シーズンにたまたま来たのも何かの縁と、その展示を観てみることにした。それで、結局「昭和館」というのは国立の施設だということを知ったのが建物を出るとき。橋本龍太郎氏の開館挨拶(「票集め」に「勲章狙い」と、ありきたりに揶揄すればそうなりますか)のようなプレートが出口に掲げてあったからだ。1999年にできたそうで、広報や報道もそれなりにされたのだろうが、ぼんやり者の私にはインプットされてなかった。

不謹慎ではあるが、ここは営業マンの息抜き場所として最高である。1階で古い映像資料を流しているが、椅子に腰掛けてゆっくり眠れる。少し目を覚まそうというときには、4階の戦争資料を集めた専門図書館も無料で利用可能。ゆったりした廊下のベンチに掛けて、自販機のソフトドリンクで喉の乾きも癒せる。

7階から6階へとつづく「戦中・戦後のくらし」は社会科の勉強には最適だ。赤紙や千人針というもの、私も初めて見たのではなかったかと思うが、竹のランドセル、国民服、洗濯板と盥、初期の冷蔵庫や洗濯機など物品を見ながら「昔はこういうもので…」と説明すると、息子は興味深そうに聞いていた。小さなコーナーごとに映像資料が用意されていて、「隣組」「学童疎開」など2分半ぐらいずつのフィルムも見れる。
日の丸弁当の模型が展示されていたので、「上から見てごらん。何に見える?」と訊くと、ちゃんと「日本の旗だ」と分かり、喜んでいた。平成生まれの日章旗に対するイメージは、スポーツの日本代表が身につけるものというものだろう。
防空壕の話が出てきたとき、彼には分かるまいと思ったが、「『火垂るの墓』で観たことあるから、わかるよ」と言っていた。アニメの力ってすごいなと感心した。
つづいて4階の図書室を覗いてみると、児童書のコーナーもあり、『アニメーション版・火垂るの墓』(新潮社)も置いてあるのである。読んでいきたいという。私は、戦前〜戦後復興期の少年マンガを集めた平凡社のムック2冊を眺めて「ほーほー、さいとうたかをが戦意高揚マンガを描いていたのか」などと新鮮なことばかりだったが、『火垂るの墓』にはルビがふってなくて、「これ何?」「これは?」とほとんどの見開きで読みを訊かれた。「児童書専門でない大手が子ども向けに本を出すと、これだよ」と編集の不備を感じる。
息子は本は親に読んでもらうものと思っているようで、ひとり読みすることは学校の図書の時間しかないようだ。マンガでも自発的に読んでくれれば有難いので、辛抱強く対応した。

何やら怪しげな施設ではあったが、出てきてみると、かなり便利に有意な利用をさせてもらった気がする。そのあと靖国神社に寄ってもよかったが、つい先日明治神宮にも行ったし、ナショナリストでもないし、昔おいしかった市谷駅近くのシェ・リュイのアイスクリーム店のはちみつアイスクリームを目指したが、さすがにつぶれたようで見当たらず。



【No.331】北の丸公園界隈…8月6日

昨日は、ものすごく久しぶりで東京中央部に出かけた。九段下駅から「国破れて山河あり」とうなりたくなるほどに夏草が生い繁る清水門をくぐって北の丸公園へ。
・東京国立近代美術館工芸館の企画展「動物のモチーフ」
・九段会館内レストラン「セラリ」
・昭和館
靖国神社の緑を右手に眺めながら、市ヶ谷駅へ。

国立近代美術館は何回となく行っているのだが、工芸館は初めてだった。震えのくるような建物で驚いた。由来はこちらのサイトに詳しいが、国の重要文化財に指定されている旧陸軍近衛師団司令部庁舎だそうだ。
旧古河庭園とか東京都庭園美術館となっている旧朝香邸などのような古い建物は好きだが、ここにこういう建物が保存されていたのかと驚いた。
展示は2階で行われていたが、幕僚室や軍獣医室があったそうである。庭には、馬がうじゃうじゃいたのだろう。ある意味、場所にふさわしい企画展でもある。

「動物のモチーフ」は夏休みを意識した展示で、子どもは無料である。展示物の一部を写真に収めたスタンプ帖(リングでカードを綴じたもの/製版の非常に優れた印刷物)をもらえて、スタンプラリーをする。気に入った作品をスケッチして提出すれば、壁面に展示されたり、台帳に綴じられたりする。
子連れの美術鑑賞というのは歓迎されない。逆の立場になれば自分も迷惑に感じるからよく分かるのだが、最近は長期休暇に合わせ、欧米のように子どもを意識した展示やワークショップが盛んに行われていて、首都圏に住む者には有難い。国の税金を使っているので、地方在住の人には恩恵が行き届きにくいのは良くないかもしれないが…。
展示品は所蔵作品中心だったが、「ラリックのブローチかっぱらっていきたい」「バーナード・リーチの陶芸品を見れるとは…」はじめ、さすがに意匠の美しく楽しいものが並んでいた。杉浦非水のデザインワークというものを初めて知ったのだけれど、デザイナーで絵本画家の杉浦繁茂氏と関係あるのだろうか、柳宗悦・柳宗理みたいに。調べねば…。柳宗理のカラトリーがうちにあるな。鍋やボウルも買ってもいいと思っている。

九段会館は外観は変わらずどっしり、これまたクラシカルで存在感ある建物だが、内部はいろいろ改装されているのだろう。レストラン「セラリ」は1200〜1600円ぐらいのランチが中心で、ビジネスマンで混んでいた。
大きなガラスで内濠が一望なので、非常に眺めがよく、気分が良い。料理もまずまずで、デザートのラム入りチーズクリームムースまでおいしかったので、息子の分まで食べてしまった。
ただ、支配人のような人がいないので、どうもサービスの小回りがきいていない。テーブルに着くのに待たされ、料理が出るのに待たされる。
子連れでビジネスランチの時間帯に行ったのもまずかったと思ったが、座って待っていたら、うしろから来たキャリア系おばさんにきゃんきゃん吠えられた。「まーったく、時間が勝負だっていうのに、ぱっとしない対応ね! 待てと言われて座っているわけ?」と、とんだとばっちり。
「ええ、私どもはしばらくお待ちくださいと声をかけられました」と穏やかに返したが、「るせー、ばばぁ。そんなに急ぐなら、ドトールでホットドックでもパクつきゃいいじゃん」と心中。忙しいときはよく食事抜きでやっていたし、食べる暇ができれば、そうやってしのいでいたよ。さぼる余裕のあるときだけ、ゆっくりランチを楽しんだ。
テーブルに着いてからも、ぶち切れたキャリア系おばさんを見た。「時間ないのよ」と文句つけた途端に出てきた。しばらく、おとなしく食べているかと思ったら、「やっぱり時間がない」と吠えていて、金返せ的な騒ぎになっていた。午後から腹のすわった商談や依頼、プレゼンでもするなら、「吠える暇に喰っておけ」と垂れたくなっただよ。
<この項つづく>



【No.330】粒状涙流結本『ダンとアン』のつづき…8月5日

世に出る経緯がとても珍しいものだし、「母親が読みきかせてくれた本」という記述が正直響いてきたことを認めないわけにいかないので、本の出版回りのことばかり書いてしまったが、「物語」は「ここまでに」と感じさせられるほどに太くまっすぐで、がつんがつんと迫ってくる。
原題のred fernはネイティヴ・アメリカン絡みだが、邦題の『ダンとアン』は何百回もの猟をともにした2匹の犬の名前である。

犬の名前だからといって愛犬家が興味をもって読むと、耐えられない場合もあるだろう。この犬たちと森の動物たちとの壮絶な死闘がクライマックスに書かれている。スプラッター・ホラーよりも凄惨な状況も出てくるので、そういうのが苦手な人は避けた方が良い。
Amazonの邦訳レビューにちょうどそういう評があったのだ。読むのが辛いから…というので評価がとても低く残念に思った。そういう読書は間違いだとは言わないし、動物愛護の視点で読むのは一向に構わない。読者の個性は尊重されてしかるべきだ。
しかし、物語の本質的なところの説明が充分でないので、レビューとして出すことには疑問を抱いた。動物愛護の立場を主張する主旨なら、もっとほかにふさわしい本があるのではないだろうか。『どうぶつたちへのレクイエム』児玉小枝(桜桃書房)のような…。
そのレビューは洗い熊猟コンテストの如何に疑問を差し挟む流れになっていたが、コンテストは実際に過去にあったことで、作者はわざわざ大げさに作り事をしたわけでなく、経験に基づいて書いているのだ。忸怩たる思いがした。「この人は財布も靴もバッグも革製品は一切使っていないんだろうな」などと無闇に腹が立った。

「犬が欲しい病」と作者は10歳のときの熱中に呼び名をつける。犬なら何でもいいというわけでなく猟犬、それも洗い熊狩りのための猟犬が2匹欲しいというのが病状だった。値が張る犬を親に買ってもらうわけにいかず、どうすればいいのかと傷をうずかせていた少年は、働いて小銭を貯めることを思いつく。
犬を手に入れるまでの働きぶりもさることながら、町に犬を引き取りに行くエピソード、犬との出会い、それを少しずつ支える人たちの記述が「予定調和的」と言ってしまえばその通りなのだけれど、物狂おしいまでに感情を掻き立ててくる。まっすぐにまっすぐに向かってくるものにはかなわないと思う。

人間と犬の間に結ばれた奇跡的な絆を描いた物語はいくつかある。この物語に特徴的なのは、人間と2匹の犬という関係だ。ダンもアンも個々には飼い主の少年と関係を結ばない。いつもふたり一緒、ふたりが協力して主人のために働く、常にふたりというかたまりでもって人間と関係を築いている。その2匹の犬のあり方がよく表現されているので、困難な狩が何度も成功し得たことに説得力がある。
2匹は異なる個性の持ち主であり、足りないところを補い合う。そうしながら、猟犬としての本性をむき出しにする仕事の場において、もてる力を発揮する。この2匹の関係、そして2匹と少年の関係は「理想的なパートナーシップ」として読むこともできる。

だが、私たちも犬も命に限りある生き物に変わりなく、理想は永遠につづかない。自分たちだけの世界での理想に満足していた彼らの身には、思いもかけない栄冠の機会ももたらされるものの、「危機」そして「別れ」が待ち受けている。
猛々しい自然のなかの荒々しい天職だからこそ、危機も別れも烈しいものである。描かれた理想というのはどこかファンタジー味のあるものだが、結びにもまたファンタジー味が用意されている。そこでそういう書かれ方がされていなかったら、乱暴で暴力的な物語だというそしりも免れなかったかもしれない。生臭い血しぶき迸る狩猟の現実が、簡潔で叙事的な文体が、これほどの詩情やファンタジー味で丁寧にくるまれているというのは、神業のように不思議なことだ。

この作品は、新しい映画の公開予定もあったようだ。こちらのサイトに書いてあった。初めて行ったけど、ここ、評判に違わぬ素晴らしいサイトだ。パトリック・マグラア『閉鎖病棟』(河出書房新社)などもだいぶ先の予定にあって嬉しかった。



【No.329】粒状涙流結本『ダンとアン』…8月5日

◆『ダンとアン』ウィルソン・ロールズ・著/和田穹男・訳(めるくまーる)
 2002年1月初版/本体1600円/4-8397-0110-5
 Where the Red Fern Grows/Wilson Rawls/1961
ごく普通の一般向け小説の体裁での出版だが、米国ではヤング・アダルト向けの本としてロングセラーだそうだ。原書の方のAmazonレビューを見ていたら、非常に易しい英語で書かれた本というリストに載っているらしい。邦訳ではアライグマが「洗い熊」と表記されていることもあり、そのような印象を受けなかった。気になるので、英文もちょっと見てみようと思った。
易しい英語で書かれているということには、作者が正規の学校教育をあまり受けていない経歴が関係しているのかもしれない。チェロキー・インディアンの血を引く母親に読み書きを教わったそうだ(「黄色」と差別発言を受けたことがちらり書いてあった)が、作者の一家はタレクワーという人口800人の田舎町から50キロ強入った山に、一家だけで暮らしていた。オクラホマ州オザーク山地である。

母親が読みきかせてくれた本のなかに、ジャック・ロンドン『荒野の呼び声』があったそうで、ロールズはのちにロンドンのような放浪の旅に出る。おそらくホーボーと呼ばれる種類の旅で、列車に飛び乗ったりしたのだろう。ジャック・ロンドンの紀行文のように…。大恐慌後、30年間にわたって仕事を求めて渡りながら少年時代の回想を書き綴った。それがこの本――というわけでなく、書きためたものを一度焼き捨てたのだが、50歳近くなってから結婚した細君に勧められ書き直したという。
1913年生まれで大恐慌は1929年。ティーンの頃から放浪を始めたのはジャック・ロンドンと同じである。ここに書かれた内容は、それまでに従事した洗い熊猟のことだが、2匹の愛犬が繰り広げた山中での死闘や、作者自身の死を意識した危機が書かれており、「野性のすさまじさ」を描いた文学としては、ロンドンの諸作やフォークナーの熊の物語に引けを取らないと思う。実際、このような名作がずっと紹介されてこなかったことが不思議な気がする。
<この項つづく>



【No.328】ちょいメモ…8月4日

涙が粒状に結ばれる本を久しぶりに読んだ。ウィルソン・ロールズ『ダンとアン』(めるくまーる)というわんころ物だが、米国ではジャック・ロンドン『野性の叫び声』のように児童書としてよく読まれているらしい。動物が出てくるものとして、彼らの世界の荒々しさを生々しく書いた『野性の呼び声』『白い牙』やフォークナーの『熊他三篇』ぐらい迫ってくるものがあった。
そういったものと少し傾向を異にし、わんこ物ではステープルドン『シリウス』(ハヤカワSF文庫)とマクラウド『冬の犬』(新潮社)も素晴らしかったけれど…。

それで、またとうとうたら〜り感想を書き始めようとして、邦訳の表紙がいまひとつなものだから、先ほど注文したばかりの原書Where the Red Fern Growsの表紙が良かったので画像サービスで貼ろうとしたら、出てこない。「店で出ている画像がどうして提携サービスでは出てこない」と腹が立った。むらっけが多いもので、ぶちんと来てしまい、気がそがれた。
きょうははよから読みきかせに行くもので、早起きして掃除や子どものお昼用お弁当作りをしたら、なかなか充実した1日になったこともあるので、眠っている間にむらっけが収まったら、早朝に仕切り直そうかと思う。
それを習慣化して、中途半端にしている抽象的テーマにも取り組む…と。



【No.327】ゴンブロヴィッチ生誕100年…8月4日

「書くものはすべてエロスに浸すべき」と言っていたというポーランドの作家ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの、きょうが生誕100年だということ。the Literary Saloonから跳んだこちらのサイトに出ていた。
ゴンブロヴィッチの作品はもっと読もうと思ってなかなか手をつけずにいるが、『対談・人間と文学』(講談社文芸文庫)で三島由紀夫がこの作家の名前を出してきていて、「なるほどなー」と妙に納得した。

何で拾ったかというと、自分と誕生日があまり違わんわい…と、獅子座の官能に敬意を表して――



【No.326】7月期のアクセス数…8月2日

◇きょうから小学校のプール学習が2週間途絶える。放っておけば愚息は1日中うちにいるので、私にとってはリアル「地獄篇」だ。いろいろな団体がサマースクールやサマーキャンプの類いを企画しているが、乗物嫌いなので何にも参加しようとしなかった。
ちなみに公立の児童館が企画するものは2泊3日で7000円程度。某アメリカン・スクールの講習は10日間ぐらいだろうか、毎日通いなのだそうだが16万円と聞き及んでいる。どちらも参加者を知っている。
愚息はお母さんに何でも手ほどきしてもらうのが楽だから家にばかりいるのかとも思うが、帝政ロシア時代の良家の住み込み家庭教師兼家政婦を思わせるハードワークである。
午前中は途中でオーバーヒートして忽然と止まったクリーナーで掃除をしたり、日を空けずにほぼ毎日洗うシーツを干しながら、書き方と100マス計算のチェックをした。午後は水泳指導に向かう予定にしているが、その前に賄いもしないといけない。のんびり本など読んでいられないのである。

◇そういう8月に回ったところで、7月のアクセス数。<閲覧者数:3033/ページビュー数:6582>で、今月もまた月末の検索ロボットのクルージングが激しかった。7ヶ月合計が<閲覧者数:12344/ページビュー数:23666>になる。アクセスが多くなると、比例してロボットの出入りが増える。日に千や万単位のヒットがあるサイトというのは、存外3分の1がその類いかもしれない。広告主への実績報告のためとか、ね。

◇ロボットは徘徊しているけれど、検索には不便を感じる局面が多い。
自分の場合は、本の情報を求めることがままある。やはり本について何か書く場合には、どこで誰がどういう方向性で書いているかを知っておくのが礼儀というもの。重複する内容のチェックは「盗作」の汚名を避けるためには欠かせないし、すでに書かれたものが作者や編集の意図にまるで追いついていないと感じる場合も少なからずある(同様のミスは自分も常に犯している可能性がある)ので、それを少しでも補うものにしたいと願うからだ。
その目的で「著者名」と「題名」の2項検索をすることがよくあるが、その方法では、図書館の新着リストや書誌情報が上位に上がってきてしまう。そこで「題名」に加えて「読んで」「読んでみて」というような感想に含まれそうな語彙をプラスするわけだが、それでも効率の良い情報渉猟は難しい。
検索エンジンは、コンテンツの濃いものを上位にヒットさせるように工夫できないのだろうか。無理と分かっていて、書く。

◇weblogに関しては、東京工業大学の奥村研究室がblogWatcherの開発を進めている。調査がこのサイトにも数回入ったことを知っているが、こちらはビジネスユースを主に企図している。すなわち、「どの月のどの週あたりで話題になったキーワードかを特定して、当時の世相やブームを拾う」、したがって「マーケティングや広告効果に役立てられる」という種類の研究開発である。
一様な情報検索に資するのとは違った、ターゲットの明確な検索になろうかと思うので、ここでの話には結びついてこないが、一般的な検索エンジンでなく、個別目的の検索エンジンの充実は今後もっと望まれることだろう。
そのために必要なのは、「サイトの選別」と「特殊な(専門)サイトを網羅するネットワーク構築」という地道な作業なのかもしれない。



【No.325】ジョルジ・アマード『テレザ』…8月1日

ノーベル賞に極めて近いところにいたというブラジルの巨匠。『カカオ』という作品は労働階級の青年を描いたものだったようだけれど、この『テレザ』は女性が主役ということで興味深い。大著だけれど、価格が安い。やればできるってことなのだろうか。



 

powered by News Handler
Home
◆本をめぐる日常雑記中心。 「草書評」の楽しさを心がける本好きの雑記系ログ。 書店やイベント、医療施設での読みきかせ活動にも参加。 ここでトラブルがあったときは、「物語るにはまだ早い」 (下の方のリンクから跳べます)を避難所として更新。 ◆ページ管理者:中村びわ(biwanaka[atマーク]infoseek.jp) 事実記載でおかしい点、誤字などそっとお教えください。 ◆Japanese Text Only

- Menu -
8月
3
9
10
20
31
過去の記事
2009年6月
2009年5月
2009年4月
2009年3月
2009年2月
2009年1月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年9月
2008年8月
2008年7月
2008年6月
2008年5月
2008年4月
2008年2月
2008年1月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年9月
2007年8月
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2007年2月
2007年1月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年9月
2006年8月
2006年7月
2006年6月
2006年5月
2006年4月
2006年3月
2006年2月
2006年1月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年9月
2005年8月
2005年7月
2005年6月
2005年5月
2005年4月
2005年3月
2005年2月
2005年1月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年9月
2004年8月
2004年7月
2004年6月
2004年5月
2004年4月
2004年3月
2004年2月
2004年1月
カテゴリー
◆新刊流通本
◆絶版・休版本
◆本を巡る雑記
◆映画と本
◆詩(Poetry)
◆出版ニュース
ブックマーク
◆書店bk1
◆日本の古本屋
◆the Literary Saloon
◆refdesk.com
◆JPIC
◆びわアンテナ
◆最後にくだものを添えて――
◆物語るにはまだ早い…このサイトの避難所