ときどき思い出したように自分が書いたものを読み返すと、文字の誤入力が多いのに呆れる。表現が重複しているとか、文の意味がうまく通っていない部分なども、しばしば見受けられぞっとしている。
時間をかけて粘り強く校正すれば避けられることなのだろうが、掲示板への書き込みみたいに手軽に投稿できる機能というのは、どうもたるんでしまう。とりあえず勢いで書いたものをアップしてしまって、あとでゆっくり直せばいいや…と。数日掲げておいて、どうせすぐにログ化されるものだし…と。
読んでいる方々には「しょうがないねぇ、またかよ」と流していただきたく、よろしくお願いいたします。
それから、正確には「……」と書くべきところ、視覚的に「…」だけにしてしまっているのだが、先日何かの小説の解説部分を読んでいたら「…」で表記している人がいて、「直せよ、編集担当者」とも思った。おかしな和製英語と同じく、多用しているうちにルールに影響を与えちゃうのかなーと少し考えた。
【No.338】イアン・バンクス『共鳴』(3)…8月12日
小説における二者の対話というのは実に難しいものだと思う。ここぞとばかり、二者に分裂した作者が日ごろためていたものを吐き出すからではないかと分析するが、押し付けがましくなったり、発展していくはずの論が堂々めぐりし始める。
これが演劇におけるダイアローグなら、二者にそれぞれ脈絡なく勝手なことを喋らせておけば面白い。舞台に響く各々のひとりよがりな見解は、相応の効果をもたらす。
ところが小説でそれをやられてしまうと、「あら、ポストモダン」ともっともそうな評価を下してもいいのだろうけれど、どうも読みにくい。せめて語るテーマは常にひとつにして、それについて二者が異なる立場から論じてくれるスタイルでないと、物語のダイナミズムがそがれてしまう感じがする。
クライム・ノヴェルをなぜ書くのか。それは作家にとって看過できない問いかけだと思う。「メシの種だから、皆が驚くようなのを書くのですよ」と居直っている人はこの際置いておくが、「犯罪というものを通して、現代社会を透視する。社会の病理をえぐり出す」といった方向性が多くの回答かと思われる。
だが、先日、「それは違うだろう」という談話記事を新聞で見かけた。朝日新聞であることは確かなのだが、日付を控えていなくて誰のコメントだったかも忘れてしまったのだが、女性の売れているミステリ作家だったように記憶する。
オウム事件の麻原被告に対する判決が出たときだったか何かのタイミングだった。「オウム事件を知ったときは『負けた』と思った。オウムのしてきたことは、私たち作家の想像力を遥かに上回るものだった」というような流れの内容だった。
確かに、人間の限界点を描こうとする小説において、「作家の想像力は現実の犯罪などどんどん凌駕していくべきだ」という気概はもっともなものだ。本音から出た言葉だろう。だが、現実に起こってしまった極悪犯罪に対するコメントとして、それは妥当ではなくひんしゅくものだ。
これでは、作家が想像力の凄さでもって世の犯罪をリードしていかなくてはならないというニュアンスに取られてしまうではないか。まとめた記者のニュアンスの受け止め方が失敗だったのかもしれないが、ひどい認識だなと痛感した。
イアン・バンクスのこの小説には、彼がいかに「犯罪とは、罪とは何か」を重ねて考えたのかが思わず出てしまっている箇所が見受けられる。キリスト教文化圏ゆえに「原罪」という言葉も出てくるが、それが先ず否定されている。
「いや、そうしゃない。人は罪のない状態で生まれてくると、おれは思う。ただ、みんな病気に感染するように罪にも感染するんだ、いずれはな。罪に感染しないための無菌室なんてない。だれも、罪に染まることのない隔離された安全地帯で一生暮らすわけにはいかないんだ、キャメロン。世の中には修道院とか尼寺なんてものがあって、俗世間から隠遁して生きる人間もいるが、おれに言わせれば、それだって上品なあきらめにすぎない。二千年前だって、手を洗ったからって罪が洗い流せたわけじゃないし、いまもそれは同じだ。人間は罪とは切っても切れない関係にあるんだよ」(361P)
ダイアローグが下手な作家のそれのように、牧師の説教のようにはなっていないのが魅力だ。
さらに、このダイアローグは場所を変えて発展していく。
「(略)しかし、病んだ社会に病的に反応するより、もう少しましなやり方があるんじゃないか? あんたは社会と戦っているつもりだろうけど、じつは同じ穴のムジナになっているにすぎない。あんたは現代社会に毒されてしまった。かれらはあんたの魂から希望を奪い、そのかわりに飽くなき憎悪を植えつけたんだ」
「魂? おまえいま、魂って言ったね、キャメロン?」(中略)
「いや、おれの言ってるのは、あんたの心髄、あんたという人間の本質のことだよ。(以下略)」(430-431P)
人間の本質へ迫って行こうという志向もまた、文学作品を文学たらしめる要素のひとつだろう。自分のなかのそのような傾きを、クライム・ノヴェルという枠を借り、リア王的な狂人に投影させ、ゴシック的に書いた――そう私は受け止めた。
<この項つづく>
【No.337】イアン・バンクス『共鳴』(2)…8月12日
小説や詩、戯曲を評する「ゴシック」という用語は大変便利なものに私には思える。
閉鎖的な空間がある。そこに閉じ込められる者、あるいは縛りつけられる者が徐々に狂気を帯びてくる。狂気が極めて初期の場合には理想郷的状況も起こり得るが、それを過ぎると悲劇が起こる。そういった物語展開をしていくものを「ゴシック」と指すと理解するならば、リアリズム文学も伝奇ロマンも本格ミステリも、そして「猟奇」「セックス」「情報」といった訴求力ある3要素を盛り込んだ『共鳴』のようなクライム・ノヴェルも、その言葉で拾える。
(そう、邦訳は1996年だが英国での出版が1993年。それを考えれば、ラップトップのパソコンを持ち歩いて新聞記事を送稿するという主人公の行為は「情報」の先端を行くものだったろう。インターネットはまだ一般ユーザー向けにインフラが整っていなかったと記憶する。)
人が恐怖感を抱くものにはさまざまな種類があるかと思うが、この「狂気」というものほど怖いものはないと私には思える。「狂気」は「正気」の対角にあるのではない。両者は、同じ物差しの目盛の上に程度の差としてある。正気の目盛がつつつーっと横に移動してきたとき、どこまでが正気でどこからが狂気と判別がつかないグレーなゾーンがあって、やがてはっきり誰の目にも狂気と認められる症状が現れる。
趣味のことでも考えてみると分かりよい。偏執狂(パラノイア)的な趣味人は、どこまでが正気でどこからが一線を越えてしまっているのか。真夏にわんこに洋服を着せて散歩させる人を、自宅をすべて樹木で覆い尽くす人を、口説き文句すら著名な文筆家の表現の引用でしか済ませられない人を、どこまで正気の人として認知すべきか。
何も猟奇やらSM嗜好といった特異な側面だけでなく、誰にでもある「怒り」「悔しさ」「憎しみ」といった感情の起伏においても、「狂気」はごく自然なものとして私たちの回りに見受けられる。
『共鳴』の主人公キャメロンは麻薬を愛飲する。昂揚感を求めるだけなので一定ラインでの節制を自分に持たせて正気を保てる量で楽しむわけだが、では、彼の性生活はどうか。これもまた、パートナーとの間に「快楽」「愉楽」が確認し合える範囲での正気からの逸脱になっているが、行き過ぎ気味の逸脱だと思える場面がある。それが、キャメロンの日常生活に「共鳴」するように描かれている連続猟奇殺人の場面と激しく同調するようトリッキーに描かれている部分が面白い。
キャメロンの正気側に踏み留まったところでのちょっとした「狂気」への逸脱と、連続殺人犯の狂気側に踏み留まったところでのちょっとした「正気」への揺り戻しの対照が『共鳴』という巧いタイトルの真価である。
そして終盤で繰り広げられる「限りなく狂人に近い健常者」と「限りなく正気に近い狂人」の間に戦わされるダイアローグこそ、イアン・バンクスの本領発揮という感じだ。
<この項つづく>
【No.336】イアン・バンクス『共鳴』(1)…8月11日
◆『共鳴』イアン・バンクス・著/広瀬順弘・訳(ハヤカワ文庫)
1996年9月初版/本体757円/4-15-100104-2
Complicity/Iain Banks/1993
ブルース・チャトウィン『パタゴニア』(めるくまーる)をカバンに入れて持って行ったのだが、宿泊先に本棚があり、いろいろなジャンルの本が乱雑に並べられていた。珍しいところでカミーロ・ホセ・セーラ『蜂の巣』という白水社<新しい世界の文学シリーズ>の1冊があり、「ほしいなー。持って行っちゃおうかなぁ」などと…。
「イアン・バンクスなんかもある」と目についたのは、『蜂の巣』からの『蜂工場』(集英社文庫)つながりだと思う。『蜂工場』1冊で、この作家がとんでもない人だと分かっていたし、さまざまなジャンルの小説を書くことを知っていたので、ちょいと読むつもりで手に取ったのだが、手放せなくなってしまった。
チェック・アウト時にまだ3分の1の読み残しがあったので、郵送で返却することにして結局借りてきた(よく考えると、一緒に『蜂の巣』も借りればよかったのだ)。
「サイコ2001」という、シャレだとしか考えられない邦題をつけられた映画にもなっているらしい。確かにこの本を、多くの人をだまくらかして売りつけたいと考えるならば、「想像を絶するグロいやり口の連続殺人、どうしようもなくエロい人妻とのSMプレイ」と読みどころを強調すればいいように思える。
そういった諸場面はかなりエキサイティングであり、本音を書いてしまうと充分に楽しんだ。などとけろり表現するとまずいか。殺害シーンは、感じ易い人でなくとも相当に気味の悪い残虐な内容であり、吐き気を催したり、あとでうなされることもあるかと思う(私も相当に感じ易いとは思っているのだが、自分ではこれでも)。
また、解説の風間賢二氏が引っ張ってきた海外評のように「トマス・ハリス『羊たちの沈黙』とブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』を合体したような作品」という説明も巧いかもしれない。このベストセラー2作品には映像でしか触れていないけれども、要素や設定、展開に重なり合うものは確かにいくつかあるし、加速していく狂気という点において、傾向の似通ったクライム・ノヴェルということも可能だろう。
だが『共鳴』は、読み通してみると決してエロ&グロなものではない。エログロを覆い尽くすものが書かれているからなのだろう。言ってみれば、英国ハイランド地方の限りなく荒漠とした土地がもたらすやるせない寂寥感である。『蜂工場』という小説もそれに包まれていた。ある土地に漂う空気には、人を痴れさせるものがあると感じさせられた。
『蜂工場』に添えられた解説には「詩的美意識」という言葉が遣われているが、イアン・バンクスの書く文章には、文学作品を文学たらしめる要素のひとつ「詩情」がトーンとしてあり、全篇を貫いている。その情感でしか書けないということが、たとえばエンターテインメントとしての価値を損ねることもあり得る。
本作『共鳴』において徹底した娯楽を追求するなら、犯人解明をもっと最後の方まで引き摺ることも可能だと思える。その手のプロットに作り直す実力は当然備わっている作家だと思う。しかし、土壇場で犯人を明かすという際どい技に走って面白さを増強することはしないのだろう。それは、犯人が分かりかけてきてからのことをじっくり書きたいからだ。
『羊たちの沈黙』『アメリカン・サイコ』は読んでいて思い浮かばなかった。けれども、この雰囲気は何かに似ている、一体何だろうと考えていて、読み終わって1日経った今日、ふっと思いついた。イアン・バンクスが書いたのは現代の『リア王』ではないか、と。
<この項つづく>
【No.335】レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』改訳…8月8日
◇出版業務を断念したペヨトル工房で出ていた『ロクス・ソルス』改訳版が平凡社ライブラリーに所収されたそう。
岡谷公二先生も1929年のお生まれですよ。『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(河出文庫)もそうだけれど、アカデミズムのジャンルから外れがちな奇才たちを紹介された功績というのは実に大きいと思う。
◇シュヴァルのあとがきにあるが、シュヴァル、ルソー、ルーセルを結びつけて論考している点が興味深い。「批判精神の欠如と無知から、はからずも生の欲求の無垢を守り返すことができた」と指摘し、それぞれ建築史、美術史、文学史の系譜をもたない、それは系譜から出発しなかったからだということに重きを置いている。『ロクス・ソルス』の主人公は科学者だそうだが、やはりそのような人間として書かれているのか。
これらの仲間が『水源』の主人公ロークに重なる。最近の日本で言うと、建築家の安藤忠雄氏や画家の司修氏も、そうね。
【No.334】小旅行の予定…8月8日
◇明日と明後日は、あまり人がいないはずの海水浴場へ。荷物がいろいろあるので「車にしない?」と持ちかけたが、「おれ、それなら行かない」と稚児さまのご機嫌そこねかけ「わかった、わかった。電車にしよう」とひと悶着。
暑い上、あんまりエンジンをかけていないので、またバッテリーが上がったりしないだろうね。樹脂の匂いが嫌だということは、総天然材料の内装車を特注しろということか。マセラッティか何かの…。
◇本文1031Pある『水源』を320P読み進め、移動先にもって行きたいのだが、車じゃないから断念。『パタゴニア』がいいだろうな。海を眺めながら、「あー、ひとりで勝手に旅行したい」と別の場所に飛ぶということで…。
家族旅行なら、あまり予定を立てずに、テントや炊事道具を積んであちこちへ移動するようなスタイルを望んでいたのだけれど、家人はその手の行動力に欠け、大きな温泉旅館で大リーグ見ながらビール飲みたい「おぢさん」と成り果てたし、子どもも乗り物酔いに加えて、心地よい室内でゲームしていたい派だし、世の中そうそううまくいかないものだ。
子どもに大うちわをあおがせながら、私はときどき星を眺めてコットの上で本を読んでいる。すると、料理自慢の夫が傍らのかまどで詰め物をした鶏のローストでも作っていて、良い匂いが漂ってくるというのが理想だ。
◇『水源』は石切場のシーンがあったせいもあるけれど、ケン・フォレット『大聖堂』を思い起こした。同じ建築の物語であるし、それに関係する人びとの群像をドラマチックに描いている娯楽性豊かな小説であるし(「建築」と「人間形成」をうまく響き合わせている点でも)、進み方が一方向で分かり易いし…。むろん、ケン・フォレットが『水源』を意識したのだろう。
政治思想家の小説ということで多少なりとも身構えていたが、「経済がすべての土台だ」みたいな表現をしているところが出てきたぐらいで、「ふぅむ、下部構造と上部構造。資本主義がまだこれからどんどん力を発揮していこうという時期に書かれた小説だぁ」という程度が今のところの印象。何か途方もない展開を期待してはいるけれど、どうだろう。そこまで到達しているだろうか。
◇bk1に愛らしい絵本と『ドクトル・マブゼ』について投稿。2本とも、久しぶりにすうっと気負いなく書けた気がする。自分にとって衝撃が大きすぎる本だと、そこのところを何とかうまく説明したいという欲が出て、高いバーに対し、フォームが乱れるのだと思った。
きょうの2冊も良い本ではあるけれど、「楽しく紹介しよう」という余裕があるのね、きっと。
【No.333】雑記あれこれ…8月7日
◇夏休み前の納会だった昨日、家人が持ち帰ったアイン・ランド『水源』――居酒屋まで持ち歩いてくれてご苦労、ご苦労と思い、きょう少し読み進める。腹が重い。
ソファで半身起こして読むというのが、どうも不自由な重量だ。内容は分かり易く面白いのだが、ときどきこの腹の上にのしかかる重さが気になる。かといって、机の上にのせて色鉛筆片手に読むような種類じゃないし…。この人のお仲間フリードマンって、ベストセラー『選択の自由』のミルトン・フリードマンか? 何やら懐かしい。
◇映画の父のひとりフリッツ・ラングが映像化した『ドクトル・マブゼ』ノルベルト・ジャック(ハヤカワ・ポケミス)面白かった〜。たしかに江戸川乱歩チック。つまり、一歩まちがうと実に安っぽいのだが、そのギリギリ線で面白おかしくやっているという意味。
◇頼まれた文章をふたつ書かなくてはいけなくて、絵本の資料さがしに忙しくしていたが、立てつづけに良い作品に出会って幸せ。昨年出た『りすのパナシ』(童話館出版)って、1907年生まれの石井桃子大先生の新作でっせ。すごいねー。石井先生の青春回顧録『幻の朱い実』って素晴らしかったけれど、岩波現代文庫にでも入らないのかしらん。
それから、この6月に出た『ジェフィのパーティー』は、先日、しつこく原文と訳を写した『すばらしいとき』の渡辺茂男先生の新作なり。1928年のお生まれ。名作絵本『どろんこハリー』のフルスタッフによるもので、内容も素晴らしい。新風舎って、最近良い絵本を出している。
絵本のオールウェイズ・マイベスト3は、小説のように悩まない。『どろんこハリー』『すばらしいとき』『かいじゅうたちのいるところ』だということで納得している。
◇『ダンとアン』原書Where the Red Fern Growsがきのう出がけに届いたので、息子とプールで泳いだあと、休みながらつらつら眺めた。確かに平易な英語で書かれている。
ガートルード・スタインがヘミングウェイに平易に書くよう文章指南をしたそうだけれど、平易にして美しい文体というのは、この時代にあっても追求されていい方向に思える。
もうひとつ確認したかったのは、邦訳になかった献辞。やはり、ちゃんとあった。
――To my wonderful wife without whose help this book would not have been written
◇きょうは家人と息子を映画に追い出せたので、単身下北沢をぐるぐる。買い物がいろいろあったけれど、途中ヴィレッジ・ヴァンガードにも三省堂にも寄る。ヴィレッジはひんしゅくもののPOPをつけて中島らも作品をどーんと並べていた。
三省堂では、ブルース・チャトウィン『パタゴニア』の4刷を発見。品切れになっていたのをこの5月に刷っていたのだ。迷わず買う。
【No.332】北の丸公園界隈のつづき…8月7日
さて、昭和館である。
地下鉄の駅から上がったとき、九段会館のとなり、ちょうど九段下交差点の角地のところに、窓のないインヴェーダー・ゲームのインヴェーダーみたいなおかしな建物が見えた。ここには何があったんだっけかと思い出せない。
何かの宗教団体か思想団体の施設だろう、何の施設か分からないけれども…、こんな真ん中にいやーねと行きは通り過ぎたが、工芸館から九段会館に寄った帰り、次の市谷駅まで歩きたいと息子が言うので向かおうとすると、「無料」という字が目に飛び込んできた。早く家に帰っても、子どもがするのはゲームだけと分かっているので、くわばらくわばら、できるだけ外に引き止めておきたい。
心地よさそうなソファも見えたので入っていくと、「戦中戦後の庶民の暮らしを展示したフロアがあります。そこは入場料がいるのですけれど、夏休みなのでお子さまは無料で…」と親切にお姉さんが説明してくれる。
真夏の戦争回想シーズンにたまたま来たのも何かの縁と、その展示を観てみることにした。それで、結局「昭和館」というのは国立の施設だということを知ったのが建物を出るとき。橋本龍太郎氏の開館挨拶(「票集め」に「勲章狙い」と、ありきたりに揶揄すればそうなりますか)のようなプレートが出口に掲げてあったからだ。1999年にできたそうで、広報や報道もそれなりにされたのだろうが、ぼんやり者の私にはインプットされてなかった。
不謹慎ではあるが、ここは営業マンの息抜き場所として最高である。1階で古い映像資料を流しているが、椅子に腰掛けてゆっくり眠れる。少し目を覚まそうというときには、4階の戦争資料を集めた専門図書館も無料で利用可能。ゆったりした廊下のベンチに掛けて、自販機のソフトドリンクで喉の乾きも癒せる。
7階から6階へとつづく「戦中・戦後のくらし」は社会科の勉強には最適だ。赤紙や千人針というもの、私も初めて見たのではなかったかと思うが、竹のランドセル、国民服、洗濯板と盥、初期の冷蔵庫や洗濯機など物品を見ながら「昔はこういうもので…」と説明すると、息子は興味深そうに聞いていた。小さなコーナーごとに映像資料が用意されていて、「隣組」「学童疎開」など2分半ぐらいずつのフィルムも見れる。
日の丸弁当の模型が展示されていたので、「上から見てごらん。何に見える?」と訊くと、ちゃんと「日本の旗だ」と分かり、喜んでいた。平成生まれの日章旗に対するイメージは、スポーツの日本代表が身につけるものというものだろう。
防空壕の話が出てきたとき、彼には分かるまいと思ったが、「『火垂るの墓』で観たことあるから、わかるよ」と言っていた。アニメの力ってすごいなと感心した。
つづいて4階の図書室を覗いてみると、児童書のコーナーもあり、『アニメーション版・火垂るの墓』(新潮社)も置いてあるのである。読んでいきたいという。私は、戦前〜戦後復興期の少年マンガを集めた平凡社のムック2冊を眺めて「ほーほー、さいとうたかをが戦意高揚マンガを描いていたのか」などと新鮮なことばかりだったが、『火垂るの墓』にはルビがふってなくて、「これ何?」「これは?」とほとんどの見開きで読みを訊かれた。「児童書専門でない大手が子ども向けに本を出すと、これだよ」と編集の不備を感じる。
息子は本は親に読んでもらうものと思っているようで、ひとり読みすることは学校の図書の時間しかないようだ。マンガでも自発的に読んでくれれば有難いので、辛抱強く対応した。
何やら怪しげな施設ではあったが、出てきてみると、かなり便利に有意な利用をさせてもらった気がする。そのあと靖国神社に寄ってもよかったが、つい先日明治神宮にも行ったし、ナショナリストでもないし、昔おいしかった市谷駅近くのシェ・リュイのアイスクリーム店のはちみつアイスクリームを目指したが、さすがにつぶれたようで見当たらず。
【No.331】北の丸公園界隈…8月6日
昨日は、ものすごく久しぶりで東京中央部に出かけた。九段下駅から「国破れて山河あり」とうなりたくなるほどに夏草が生い繁る清水門をくぐって北の丸公園へ。
・東京国立近代美術館工芸館の企画展「動物のモチーフ」
・九段会館内レストラン「セラリ」
・昭和館
靖国神社の緑を右手に眺めながら、市ヶ谷駅へ。
国立近代美術館は何回となく行っているのだが、工芸館は初めてだった。震えのくるような建物で驚いた。由来はこちらのサイトに詳しいが、国の重要文化財に指定されている旧陸軍近衛師団司令部庁舎だそうだ。
旧古河庭園とか東京都庭園美術館となっている旧朝香邸などのような古い建物は好きだが、ここにこういう建物が保存されていたのかと驚いた。
展示は2階で行われていたが、幕僚室や軍獣医室があったそうである。庭には、馬がうじゃうじゃいたのだろう。ある意味、場所にふさわしい企画展でもある。
「動物のモチーフ」は夏休みを意識した展示で、子どもは無料である。展示物の一部を写真に収めたスタンプ帖(リングでカードを綴じたもの/製版の非常に優れた印刷物)をもらえて、スタンプラリーをする。気に入った作品をスケッチして提出すれば、壁面に展示されたり、台帳に綴じられたりする。
子連れの美術鑑賞というのは歓迎されない。逆の立場になれば自分も迷惑に感じるからよく分かるのだが、最近は長期休暇に合わせ、欧米のように子どもを意識した展示やワークショップが盛んに行われていて、首都圏に住む者には有難い。国の税金を使っているので、地方在住の人には恩恵が行き届きにくいのは良くないかもしれないが…。
展示品は所蔵作品中心だったが、「ラリックのブローチかっぱらっていきたい」「バーナード・リーチの陶芸品を見れるとは…」はじめ、さすがに意匠の美しく楽しいものが並んでいた。杉浦非水のデザインワークというものを初めて知ったのだけれど、デザイナーで絵本画家の杉浦繁茂氏と関係あるのだろうか、柳宗悦・柳宗理みたいに。調べねば…。柳宗理のカラトリーがうちにあるな。鍋やボウルも買ってもいいと思っている。
九段会館は外観は変わらずどっしり、これまたクラシカルで存在感ある建物だが、内部はいろいろ改装されているのだろう。レストラン「セラリ」は1200〜1600円ぐらいのランチが中心で、ビジネスマンで混んでいた。
大きなガラスで内濠が一望なので、非常に眺めがよく、気分が良い。料理もまずまずで、デザートのラム入りチーズクリームムースまでおいしかったので、息子の分まで食べてしまった。
ただ、支配人のような人がいないので、どうもサービスの小回りがきいていない。テーブルに着くのに待たされ、料理が出るのに待たされる。
子連れでビジネスランチの時間帯に行ったのもまずかったと思ったが、座って待っていたら、うしろから来たキャリア系おばさんにきゃんきゃん吠えられた。「まーったく、時間が勝負だっていうのに、ぱっとしない対応ね! 待てと言われて座っているわけ?」と、とんだとばっちり。
「ええ、私どもはしばらくお待ちくださいと声をかけられました」と穏やかに返したが、「るせー、ばばぁ。そんなに急ぐなら、ドトールでホットドックでもパクつきゃいいじゃん」と心中。忙しいときはよく食事抜きでやっていたし、食べる暇ができれば、そうやってしのいでいたよ。さぼる余裕のあるときだけ、ゆっくりランチを楽しんだ。
テーブルに着いてからも、ぶち切れたキャリア系おばさんを見た。「時間ないのよ」と文句つけた途端に出てきた。しばらく、おとなしく食べているかと思ったら、「やっぱり時間がない」と吠えていて、金返せ的な騒ぎになっていた。午後から腹のすわった商談や依頼、プレゼンでもするなら、「吠える暇に喰っておけ」と垂れたくなっただよ。
<この項つづく>
【No.330】粒状涙流結本『ダンとアン』のつづき…8月5日
世に出る経緯がとても珍しいものだし、「母親が読みきかせてくれた本」という記述が正直響いてきたことを認めないわけにいかないので、本の出版回りのことばかり書いてしまったが、「物語」は「ここまでに」と感じさせられるほどに太くまっすぐで、がつんがつんと迫ってくる。
原題のred fernはネイティヴ・アメリカン絡みだが、邦題の『ダンとアン』は何百回もの猟をともにした2匹の犬の名前である。
犬の名前だからといって愛犬家が興味をもって読むと、耐えられない場合もあるだろう。この犬たちと森の動物たちとの壮絶な死闘がクライマックスに書かれている。スプラッター・ホラーよりも凄惨な状況も出てくるので、そういうのが苦手な人は避けた方が良い。
Amazonの邦訳レビューにちょうどそういう評があったのだ。読むのが辛いから…というので評価がとても低く残念に思った。そういう読書は間違いだとは言わないし、動物愛護の視点で読むのは一向に構わない。読者の個性は尊重されてしかるべきだ。
しかし、物語の本質的なところの説明が充分でないので、レビューとして出すことには疑問を抱いた。動物愛護の立場を主張する主旨なら、もっとほかにふさわしい本があるのではないだろうか。『どうぶつたちへのレクイエム』児玉小枝(桜桃書房)のような…。
そのレビューは洗い熊猟コンテストの如何に疑問を差し挟む流れになっていたが、コンテストは実際に過去にあったことで、作者はわざわざ大げさに作り事をしたわけでなく、経験に基づいて書いているのだ。忸怩たる思いがした。「この人は財布も靴もバッグも革製品は一切使っていないんだろうな」などと無闇に腹が立った。
「犬が欲しい病」と作者は10歳のときの熱中に呼び名をつける。犬なら何でもいいというわけでなく猟犬、それも洗い熊狩りのための猟犬が2匹欲しいというのが病状だった。値が張る犬を親に買ってもらうわけにいかず、どうすればいいのかと傷をうずかせていた少年は、働いて小銭を貯めることを思いつく。
犬を手に入れるまでの働きぶりもさることながら、町に犬を引き取りに行くエピソード、犬との出会い、それを少しずつ支える人たちの記述が「予定調和的」と言ってしまえばその通りなのだけれど、物狂おしいまでに感情を掻き立ててくる。まっすぐにまっすぐに向かってくるものにはかなわないと思う。
人間と犬の間に結ばれた奇跡的な絆を描いた物語はいくつかある。この物語に特徴的なのは、人間と2匹の犬という関係だ。ダンもアンも個々には飼い主の少年と関係を結ばない。いつもふたり一緒、ふたりが協力して主人のために働く、常にふたりというかたまりでもって人間と関係を築いている。その2匹の犬のあり方がよく表現されているので、困難な狩が何度も成功し得たことに説得力がある。
2匹は異なる個性の持ち主であり、足りないところを補い合う。そうしながら、猟犬としての本性をむき出しにする仕事の場において、もてる力を発揮する。この2匹の関係、そして2匹と少年の関係は「理想的なパートナーシップ」として読むこともできる。
だが、私たちも犬も命に限りある生き物に変わりなく、理想は永遠につづかない。自分たちだけの世界での理想に満足していた彼らの身には、思いもかけない栄冠の機会ももたらされるものの、「危機」そして「別れ」が待ち受けている。
猛々しい自然のなかの荒々しい天職だからこそ、危機も別れも烈しいものである。描かれた理想というのはどこかファンタジー味のあるものだが、結びにもまたファンタジー味が用意されている。そこでそういう書かれ方がされていなかったら、乱暴で暴力的な物語だというそしりも免れなかったかもしれない。生臭い血しぶき迸る狩猟の現実が、簡潔で叙事的な文体が、これほどの詩情やファンタジー味で丁寧にくるまれているというのは、神業のように不思議なことだ。
この作品は、新しい映画の公開予定もあったようだ。こちらのサイトに書いてあった。初めて行ったけど、ここ、評判に違わぬ素晴らしいサイトだ。パトリック・マグラア『閉鎖病棟』(河出書房新社)などもだいぶ先の予定にあって嬉しかった。
【No.329】粒状涙流結本『ダンとアン』…8月5日
◆『ダンとアン』ウィルソン・ロールズ・著/和田穹男・訳(めるくまーる)
2002年1月初版/本体1600円/4-8397-0110-5
Where the Red Fern Grows/Wilson Rawls/1961
ごく普通の一般向け小説の体裁での出版だが、米国ではヤング・アダルト向けの本としてロングセラーだそうだ。原書の方のAmazonレビューを見ていたら、非常に易しい英語で書かれた本というリストに載っているらしい。邦訳ではアライグマが「洗い熊」と表記されていることもあり、そのような印象を受けなかった。気になるので、英文もちょっと見てみようと思った。
易しい英語で書かれているということには、作者が正規の学校教育をあまり受けていない経歴が関係しているのかもしれない。チェロキー・インディアンの血を引く母親に読み書きを教わったそうだ(「黄色」と差別発言を受けたことがちらり書いてあった)が、作者の一家はタレクワーという人口800人の田舎町から50キロ強入った山に、一家だけで暮らしていた。オクラホマ州オザーク山地である。
母親が読みきかせてくれた本のなかに、ジャック・ロンドン『荒野の呼び声』があったそうで、ロールズはのちにロンドンのような放浪の旅に出る。おそらくホーボーと呼ばれる種類の旅で、列車に飛び乗ったりしたのだろう。ジャック・ロンドンの紀行文のように…。大恐慌後、30年間にわたって仕事を求めて渡りながら少年時代の回想を書き綴った。それがこの本――というわけでなく、書きためたものを一度焼き捨てたのだが、50歳近くなってから結婚した細君に勧められ書き直したという。
1913年生まれで大恐慌は1929年。ティーンの頃から放浪を始めたのはジャック・ロンドンと同じである。ここに書かれた内容は、それまでに従事した洗い熊猟のことだが、2匹の愛犬が繰り広げた山中での死闘や、作者自身の死を意識した危機が書かれており、「野性のすさまじさ」を描いた文学としては、ロンドンの諸作やフォークナーの熊の物語に引けを取らないと思う。実際、このような名作がずっと紹介されてこなかったことが不思議な気がする。
<この項つづく>
【No.328】ちょいメモ…8月4日
涙が粒状に結ばれる本を久しぶりに読んだ。ウィルソン・ロールズ『ダンとアン』(めるくまーる)というわんころ物だが、米国ではジャック・ロンドン『野性の叫び声』のように児童書としてよく読まれているらしい。動物が出てくるものとして、彼らの世界の荒々しさを生々しく書いた『野性の呼び声』『白い牙』やフォークナーの『熊他三篇』ぐらい迫ってくるものがあった。
そういったものと少し傾向を異にし、わんこ物ではステープルドン『シリウス』(ハヤカワSF文庫)とマクラウド『冬の犬』(新潮社)も素晴らしかったけれど…。
それで、またとうとうたら〜り感想を書き始めようとして、邦訳の表紙がいまひとつなものだから、先ほど注文したばかりの原書Where the Red Fern Growsの表紙が良かったので画像サービスで貼ろうとしたら、出てこない。「店で出ている画像がどうして提携サービスでは出てこない」と腹が立った。むらっけが多いもので、ぶちんと来てしまい、気がそがれた。
きょうははよから読みきかせに行くもので、早起きして掃除や子どものお昼用お弁当作りをしたら、なかなか充実した1日になったこともあるので、眠っている間にむらっけが収まったら、早朝に仕切り直そうかと思う。
それを習慣化して、中途半端にしている抽象的テーマにも取り組む…と。
【No.327】ゴンブロヴィッチ生誕100年…8月4日
「書くものはすべてエロスに浸すべき」と言っていたというポーランドの作家ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの、きょうが生誕100年だということ。the Literary Saloonから跳んだこちらのサイトに出ていた。
ゴンブロヴィッチの作品はもっと読もうと思ってなかなか手をつけずにいるが、『対談・人間と文学』(講談社文芸文庫)で三島由紀夫がこの作家の名前を出してきていて、「なるほどなー」と妙に納得した。
何で拾ったかというと、自分と誕生日があまり違わんわい…と、獅子座の官能に敬意を表して――
【No.326】7月期のアクセス数…8月2日
◇きょうから小学校のプール学習が2週間途絶える。放っておけば愚息は1日中うちにいるので、私にとってはリアル「地獄篇」だ。いろいろな団体がサマースクールやサマーキャンプの類いを企画しているが、乗物嫌いなので何にも参加しようとしなかった。
ちなみに公立の児童館が企画するものは2泊3日で7000円程度。某アメリカン・スクールの講習は10日間ぐらいだろうか、毎日通いなのだそうだが16万円と聞き及んでいる。どちらも参加者を知っている。
愚息はお母さんに何でも手ほどきしてもらうのが楽だから家にばかりいるのかとも思うが、帝政ロシア時代の良家の住み込み家庭教師兼家政婦を思わせるハードワークである。
午前中は途中でオーバーヒートして忽然と止まったクリーナーで掃除をしたり、日を空けずにほぼ毎日洗うシーツを干しながら、書き方と100マス計算のチェックをした。午後は水泳指導に向かう予定にしているが、その前に賄いもしないといけない。のんびり本など読んでいられないのである。
◇そういう8月に回ったところで、7月のアクセス数。<閲覧者数:3033/ページビュー数:6582>で、今月もまた月末の検索ロボットのクルージングが激しかった。7ヶ月合計が<閲覧者数:12344/ページビュー数:23666>になる。アクセスが多くなると、比例してロボットの出入りが増える。日に千や万単位のヒットがあるサイトというのは、存外3分の1がその類いかもしれない。広告主への実績報告のためとか、ね。
◇ロボットは徘徊しているけれど、検索には不便を感じる局面が多い。
自分の場合は、本の情報を求めることがままある。やはり本について何か書く場合には、どこで誰がどういう方向性で書いているかを知っておくのが礼儀というもの。重複する内容のチェックは「盗作」の汚名を避けるためには欠かせないし、すでに書かれたものが作者や編集の意図にまるで追いついていないと感じる場合も少なからずある(同様のミスは自分も常に犯している可能性がある)ので、それを少しでも補うものにしたいと願うからだ。
その目的で「著者名」と「題名」の2項検索をすることがよくあるが、その方法では、図書館の新着リストや書誌情報が上位に上がってきてしまう。そこで「題名」に加えて「読んで」「読んでみて」というような感想に含まれそうな語彙をプラスするわけだが、それでも効率の良い情報渉猟は難しい。
検索エンジンは、コンテンツの濃いものを上位にヒットさせるように工夫できないのだろうか。無理と分かっていて、書く。
◇weblogに関しては、東京工業大学の奥村研究室がblogWatcherの開発を進めている。調査がこのサイトにも数回入ったことを知っているが、こちらはビジネスユースを主に企図している。すなわち、「どの月のどの週あたりで話題になったキーワードかを特定して、当時の世相やブームを拾う」、したがって「マーケティングや広告効果に役立てられる」という種類の研究開発である。
一様な情報検索に資するのとは違った、ターゲットの明確な検索になろうかと思うので、ここでの話には結びついてこないが、一般的な検索エンジンでなく、個別目的の検索エンジンの充実は今後もっと望まれることだろう。
そのために必要なのは、「サイトの選別」と「特殊な(専門)サイトを網羅するネットワーク構築」という地道な作業なのかもしれない。
【No.325】ジョルジ・アマード『テレザ』…8月1日
ノーベル賞に極めて近いところにいたというブラジルの巨匠。『カカオ』という作品は労働階級の青年を描いたものだったようだけれど、この『テレザ』は女性が主役ということで興味深い。大著だけれど、価格が安い。やればできるってことなのだろうか。
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